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留年院生。絵描いてます。LGBT調べてます。憲法やってました(過去形)。ここはメモ帳です。

【読書】親が子どもの遺伝子を操作することは本当に許されないことなのか?ーー桜井徹『リベラル優生主義と正義』(2)

 以下の記事で紹介した桜井先生のリベラル優生主義と正義に関する話の続き。

 

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桜井徹の見解

 桜井はリベラル優生主義に対してどう応答するのだろうか?桜井は、遺伝子改良を(1)肉体的改良、(2)知的改良、(3)道徳的改良の3つに分けたうえで*1、こう述べる。

  1. 肉体的改良については、免疫系の改良といった「健康に関連する改良」については「最も道徳的に正当化しやすい」(195頁)。しかし、健康に関連しない身長や体格等の改良は「子供のライフ・プランを狭める可能性が高いので、リベラルな立場からしても正当化が難しい」(195頁。この点については前回の記事も参照)。
  2. 知的改良については、「……重要な利益の見込みがある以上、リベラルな危害原理に立っているかぎりは、この遺伝的改良を正面から否定することはむずかしい」(198頁)。
  3. 道徳的改良について、桜井は暴力犯罪の抑止という「危害」を予防するための遺伝子介入の危険性を指摘する。

 3の道徳的改良の点にこそ桜井の見解の独自性があるように思われるので、ここを詳しく見てみよう。まず、桜井は、ブルンナーらの研究を参照しつつ、人間の攻撃性・暴力的行動と密接に関係する遺伝マーカーが確定される可能性を指摘する。そして、「こうした遺伝子的因子の存否が見極められることの影響は、本人や家族だけでなく、むしろ社会全体に及ぶ」ことに注意を促す(201頁)。つまり、自由主義社会において、アルコール中毒や犯罪といった社会問題が「遺伝子」の圧倒的な影響のもとに生じているとされた場合、その社会問題は治療可能な「医学的問題」に置き換えられることを意味するのである。このことは、問題を抱える個人の社会的・経済的状況から人々の目をそらし、(それが「個人」の遺伝子の問題であるがために)国家や社会制度の現状を合理化・正当化してしまう。のみならず、国家や社会が「社会秩序の防衛のために遺伝子を管理する必要があるという認識が生まれないともかぎらない」(201頁。強調引用者、以下同じ)。さらに進んで、「国家が積極的に将来世代の遺伝的資質を改良するべきだという方向」へと国家の役割が拡大する可能性もある(202頁。傍点は削除した)。

 こうした危惧に加えて、桜井はさらに次の点を指摘する。社会問題を生みだすような暴力的性向を生みだす遺伝的因子が特定された場合、「この遺伝的因子をコントロールする技術が現実化するや否や、この暴力性・攻撃性の遺伝的因子を〔生殖によって〕次世代に引き渡すことに対する『責任』が問われる可能性が生まれる」(203頁。〔〕内引用者、以下同じ)。その場合、「生まれ来る子供が、道徳的・法的非難に値する攻撃的・暴力的傾向をもって誕生することを予防する遺伝的介入によって、〔犯罪抑止という社会的利益を目的として、〕犯罪件数の減少を図ろうとする社会政策を想像することができる」(同頁)。これは、もはや子の福利のための遺伝子介入とは全くの別物である。

 そして、このような遺伝子介入を、リベラル優生主義論者のブキャナンらは道徳的に否定しない。桜井はこう述べる。

「生まれ来る子孫それぞれの『善』の追求を容易にするための遺伝子改良を推進するリベラル優生主義が、例えば『犯罪予防・抑止』という集合的目標のための遺伝子改良を肯定するに至るまで、ほんの一歩しかない」(205頁)。

 また、攻撃性を抑えるようなタイプの道徳的改良は、現行の社会に人々を同化させることを助け、統治者にとって都合の良いものとなろう。さらに、この種の道徳的改良は人々の自由な「政治的理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない」(206頁)。

 そして、桜井はこの議論を次の通り総括する。

「リベラル優生主義は、個人的イニシアティヴに基づく遺伝的介入を『生殖の自由』の延長というかたちで正当化しようと試みたとき、リベラルな危害原理を究極的な根拠とせざるをえなかった。つまり、子孫のための遺伝子改良は、彼ら各々の『善』の追求を容易にするし、第三者にも社会にも何の害も危険も与えない、という正当化根拠に最終的に訴えたのである。しかしこのことが同時に、将来における遺伝的介入技術の展望が、暴力犯罪という『危害』の発生を抑止する可能性を示したとき、その技術の利用を拒むことを原理的に極めてむずかしくしたのである。これも、ある種の論理的なアイロニーだと言える」(208-209頁)。

 

桜井の議論への疑問

 (追記2017年4月19日:下記のコメントには問題があるので近いうちに修正します)

 

 なるほど桜井の議論はわかりやすく説得力があるように見えるが、疑問がなくもない。

 先に紹介したとおり、桜井は、206頁以下で、道徳的改良が人々の自由な「政治的理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない」と述べていた。かなり長くなるが、この点をもう少し詳細に引用してみよう。

 〔A〕「イエスやガンジーキング牧師の例が示すように、攻撃性は、現状の権力構造や不正義に対する正当な批判精神や反逆心と結びついている場合もあり、そのような攻撃性の現れは道徳的に中立的か、むしろ望ましい政治的実践にもなりうると考えられる。このような批判的精神に支えられた攻撃性・反抗心は、社会構造に関するより優れた構想の『芽』にもなりうるものだからである。このように社会改革の芽にもなりうる攻撃性を、『社会的目的』という名のもとで事前に詰んでしまうことは、――ちょうど〔ハクスリーのディストピア小説〕『すばらしき新世界』における〔幸福感と楽しい幻覚を与える薬剤である〕ソーマと同じように――人々の社会的同化を巧妙に進めるだけでなく、生まれ来る個々人の政治的な理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない。つまり、社会的目的の遺伝的介入による攻撃性・暴力性の除去が、『批判的精神をもって一定の政治的な信念を選択し追求する自由』をあらかじめ排除する方向にはたらく可能性があるのではないか、ということである

 〔B〕このように、道徳的改良をとりわけ『犯罪の抑止』などという社会的目的のために推し進めることが、人間の包括的な価値観・信念を構造的に狭める恐れがあるとすれば、それは『開かれた未来への権利』を子供たちに保障しようとするリベラル優生主義の観点からも是認すべきでないと思われる。なぜなら、われわれの政治的な理念や実践の形成そのものに大きな影響を与えうる道徳的改良は、公共生活における諸制度やその運営に対してわれわれが主体的に修正や異議を申し立て、文字通りの自律を達成することを妨害する可能性を持つからである。生活共同体において政治的に自律をなしとげられないおそれのある環境で、そもそも『開かれた未来』が保障されていると言えるのか、きわめて疑わしい。この場合、社会的目的の遺伝子介入を、無数の個人的目的の遺伝子介入へと安易に還元することももちろんできない。政治的・社会的体制の維持に利益を有する者にとって、社会的目的の道徳的改良がもつ意味は、個人的な肉体的・知的改良がもつ意味とはまったく異なるのである」(206-207頁。原文の出典表記は省略した) 

  ここで重要なのは、〔A〕の箇所である。この箇所において、桜井は、「社会的目的の遺伝的介入による攻撃性・暴力性の除去が、『批判的精神をもって一定の政治的な信念を選択し追求する自由』をあらかじめ排除する方向にはたらく可能性があるのではないか」と述べている。〔B〕の箇所は、後述する桜井自身の立場からの批判的応答である。

 しかし、これは危害原理を採用する従来のリベラル優生主義の立場からも十分に応答可能な問題なのではないだろうか。リベラル優生主義においては、「遺伝子介入はあくまでも、生まれ来る子供が自由にライフ・プランを選択できる範囲を狭めないかぎりにおいて許される」(187頁)にすぎない。ところで、攻撃性や暴力性は、たとえばスポーツや学術研究等にとって重要である。野球やサッカーといったスポーツには攻撃性が大きく関わってくる(攻守の概念がないスポーツは別だが)。とくに、格闘技のように、攻撃性や暴力性の発現それ自体がスポーツになっている場合もある。学術研究や政策論争等においても、攻撃性は議論の応酬に寄与し、発展的な議論を生みだすのに欠かせないように思われる。こうした見方が認められるとすれば、攻撃性や暴力性を抑制するような遺伝子介入は、子供のライフ・プランの自由な選択を脅かすおそれがあるといえよう(たとえば、攻撃性や暴力性が抑制された子供は、プロボクサーとしてやっていけるのだろうか?)。

 そうであるとすると、リベラル優生主義の立場からしても桜井の問題意識に応答できるのだから、桜井が次の通り述べたうえで行った上述の〔B〕の議論は、「道徳的改良の問題におけるリベラル優生主義の限界の指摘」としては成功していないように思われる*2

「リベラルな社会観が多様な発展を保障すべきなのは、個々人の『ライフ・プラン』だけではなく、より包括的な『価値観』ともいうべきものだと主張したい。言い換えれば、リベラルな社会に生まれ来る子供にとっては、個人的なライフ・スタイルや職業に関して幅広い選択肢が開かれているだけでは不十分であって、公共生活の枠組みや社会的制度の修正・改善にも自らの価値観に基づいて自由に参加できる余地が与えられる必要がある」(190頁)。

  桜井の議論に対してこうした反論が可能になってしまう理由は、リベラル優生主義のいう「ライフ・プランの選択」という概念と、それが狭められているか否かの判断基準があいまいな点にあるのかもしれない。

 

その他:同性愛とか自閉症とかメカ少女とか殺人ロボット・アーム

 (ブキャナンらの著作を読んでいないことを先に断っておくが)ブキャナンらのように機会の平等といった観点から遺伝子介入を正当化するならば、たとえば我が子がLGBTQ(同性愛者等)であるとか自閉症自閉症スペクトラム)であるといったことが判明した場合に、それを「修正」する遺伝子介入を行うことは正当化されるのだろうか(誰だったか忘れたが、自閉症児は中絶するのが倫理的要請であると説いていた哲学者がいたと思う。その哲学者は自閉症児の親でもある)?同性愛者等の性的マイノリティは、「ノーマル」な人たちと比べると、事実の問題として、様々な点で機会の不平等を被っている。仮に遺伝子介入技術によって同性愛等が「治療」できるようになったとき、機会の平等を回復するために我が子を「治療」して「ノーマル」にすることは、親の「生殖の自由」に基づいて正当化できるのだろうか*3自閉症の場合はどうだろうか?小児性愛の場合はどうだろうか?問題は無限に広がっていくようにも思われる(この議論は、憲法学においてしばしば語られる「実質的な機会の平等」という謎概念を思い出させる。「実質的な機会の平等」はその具体的内容があいまいで外延が不明確なのだが、個別の不平等事例を解決する魔法の杖として使われているように感ぜられる)。

 なお、私が個人的に気になっているのは、自分の腕をサイバーパンクめいた殺人ロボット・アームに取り替えたり、首元にLAN直結端子をインプラントしたり、なんかよくわからないスゴいものを発生させるジェネレーターをはめ込んだりといった生体機械化(サイバネ化)の可能性である。サイバネ化と遺伝子介入とはどう違うのだろうか?異なる道徳的評価が与えられるべきであるとすれば、それはなぜだろうか?メカ少女好きとしては一度調べておきたい問題である。

 

メカ少女とは (メカショウジョとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

*1:この分類はウォルターズ&パーマーの分類に基づいたものである。

*2:念のため述べておくが、本書は、「リベラル優生主義は間違っている」といった主張をするものではない。

*3:関連して、ヴァネッサ・ベアードは同性愛の原因に関する科学的探求の文脈について論じる中で、次の通り述べている。「ゲイの権利に反対する人々は彼らの政治課題を追求しているのであり、その大義を支えるために医学を利用できなければ、他の何かを使うだけだろう。〔原文改行〕たとえば、ホモフォビア〔=同性愛嫌悪〕が存在し、性的マイノリティたちのために十分な市民権が存在しない社会では、『ゲイ遺伝子』を見つけることは、相当な危険も伴う可能性がある。『ゲイ遺伝子』は、ゲイたちを『治す』ための遺伝子治療につながるかもしれない。出生前の検査により子宮の中の遺伝子を検出し、ゲイの胎児を中絶させるかもしれない。あるいは、ゲイの赤ん坊たちをヘテロセクシュアルに変える出生前の治療につながるかもしれない」(ヴァネッサ・ベアード〔町口哲夫訳〕『性的マイノリティの基礎知識』〔作品社、2005年〕128-129頁)