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arbor_vitae

留年院生。絵描いてます。LGBT調べてます。憲法やってました(過去形)。ここはメモ帳です。

【読書】親が子どもの遺伝子を操作することは本当に許されないことなのか?ーー桜井徹『リベラル優生主義と正義』(1)

「優生主義(優生学)」の復権

 知的障害者施設において多くの障害者が元職員の男に殺害された津久井やまゆり園事件(相模原障害者施設連続殺傷事件)からもう半年以上経つ*1。この津久井やまゆり園事件は、戦後最大の大量殺人事件としてニュースになったが、元職員の男の言動から、優生主義の絡む問題として受け止める向きもあった。

 優生主義(優生思想、優生学)とは、遺伝学的に人類をより優れたものにしようとする考え方のことだ。この考え方に基づき、20世紀のナチス・ドイツやアメリカが障害者等に対する強制的断種を実施したことはよく知られている。

 優生主義は負のレッテルの代表格である。優生主義に基づく政策や行動は「疑いなき悪」であり、いかなる理由があっても許されない行為であると考えられている*2。だが、本当にそうだろうか?たとえば、「遺伝性の難病を抱えて生まれてくる我が子を病気から守るために、バイオテクノロジーを利用して子供の遺伝子に介入する」ようなケースにおいても、その遺伝子介入は許されない行為なのだろうか?また、親が子供により高い能力を与えるために遺伝子に介入することは許されないのだろうか?

 本書『リベラル優生主義と正義』が検討・批判対象とする「リベラル優生主義」の提唱者たちは、親の「生殖の自由」を根拠にこうした遺伝子介入を正当化する。

 

リベラル優生主義と正義

リベラル優生主義と正義

 

 

リベラル優生主義とは何か?

 リベラル優生主義とは、 「親が自らの子供の福利のために、バイオテクノロジーを利用して子供の遺伝的特徴を改善することを、『生殖の自由』の延長線上に位置づけて擁護する立場」を指す(3頁。強調引用者、以下同じ)。

 さて、リベラル優生主義の中心的主張は、次の3つの要素に分けられる(11頁。やや長くなるので、流し読みしてもらってもいいと思う)。

  1. 【親の自発的選択による遺伝的改良の承認】「バイオテクノロジーによって子孫に付与される遺伝的特徴を決めるのは、国家や社会ではなく、その親という『個人』である」(11-12頁)。この点で、リベラル優生主義は、20世紀のナチスやアメリカのように国家が「望ましい/望ましくない遺伝的特徴」を決めつける「権力主義的優生主義」とは全く異なる。「親がその子供のためになす遺伝的改良は、……『生殖の自由』の延長線上に位置づけられる」のである(12頁)*3
  2. 【遺伝子介入による「治療」と「改良」との区別に道徳的な重要性を認めない】遺伝子テクノロジーの進歩に政治的規制をかけるべきだ、と主張する論者の中には、「健康の回復を目的とする『治療』であれば遺伝子介入も許されるが、もともと正常な状態を『改良』するための遺伝子介入技術の研究は制限すべきだ」との立場をとる者がいる(16頁)*4。だが、リベラル優生主義の論者たちは、治療と改良の厳密な区別が不可能であることを強調する。たとえば、遺伝子介入による更年期障害の「治療」は、それが加齢に伴って普通に現れる現象であるために、身体機能の「改良」という面も持つ、といった具合である。

  3. 【人間の改善につき、環境の改変によるものと遺伝子の改変によるものとの間に道徳的な違いを認めない】面白いことに、リベラル優生主義は「遺伝子の在り方が人間形成に決定的な影響力を及ぼす」という考え方を受け入れない。遺伝子だけではなく、環境の在り方も人間の発達に影響を及ぼすことを積極的に認めているのだ。これは、かつては断種まで行った優生主義という考え方に反するように思えるかもしれない。しかし、実はこれこそがリベラル優生主義の巧妙なところだ。つまり、遺伝子だけが特別な重要性を持つわけではなく、「遺伝子と環境とが人間の諸特徴の形成に同等の重要性を持つとしたら、遺伝子の改変によって能力の改善を図ろうとも、環境――食事、教育、訓練、しつけ等――の改変によって能力の改善を図ろうとも、これら二つの方法は同等の道徳的評価を受けるべきだ」と考えるのである(18頁)。我が子を立派な学校に入れて子供の知的能力を発展させる自由は当然のように親に認められているのに、(必ずしも決定的な影響を与えるとは限らないにもかかわらず)知能を高めるための遺伝的介入が認められるべきではないというのはおかしくないだろうか?*5

 

危害原理に基づくリベラル優生主義の自己規制

 リベラル優生主義に対してはもちろん反論もある(別に記事を書く予定)が、リベラル優生主義陣営からの再反論もあり、簡単には決着がつきそうにない。このことは、現在の優生主義は、そう簡単には退けられないほど理論的に洗練されたものになっているということの証明なのかもしれない。

 さて、それほどまでに洗練されたリベラル優生主義に対し、桜井はどう考えるのだろうか?

 桜井の見解を見る前に抑えておくべき重要な点は、リベラル優生主義が「危害原理」を前提にしているということだ。危害原理とは、「他人が相手の自由に干渉できるのは、その相手が他人に危害を与える可能性があることを原則とする」考え方である*6。雑な言い方だが、他人に迷惑をかけない行為は放っておくべきである、というとわかりやすいかもしれない。

 この危害原理は、社会に何の害も与えないような遺伝子介入を強力に正当化するが、子供に害を与えるような遺伝子介入等を拒絶する。よって、「遺伝子介入はあくまでも、生まれ来る子供が自由にライフ・プランを選択できる範囲を狭めないかぎりにおいて許されることになる」(187頁)。ウエイトリフティングの選手に有利なガッチリした体型を与える遺伝子介入は、子供がバスケットボール選手になるのに不利に働くだろう。こうした遺伝子介入は認められないというわけだ。

 

 このあと、リベラル優生主義に対する桜井の見解が述べられるのだが、長くなったので別に記事を用意しようと思う。気になる方はそちらを御覧ください。

 

追記(2017年4月11日)

続きです。桜井先生の見解と個人的なコメントを書きました。

 

arbor-vitae28.hatenablog.com

 

*1:津久井やまゆり園事件については、さしあたり以下を参照。

相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia

「津久井やまゆり園」事件、雑感: 極東ブログ

*2:桜井は、「明確な意味を欠く非難の表現として利用されているという点で、『優生学』『優生主義』という後は、しばしば着床前遺伝子診断に対して投げかけられる『生命の選別』という表現と共通するところがあるようにみえる」と述べている(5頁)。

*3:なお、桜井によれば、リベラル優生主義の提唱者であるブキャナンらにとって、「優生主義の中心を占める倫理的問題は個人的選択というよりも、むしろ社会正義なのである」(13-14頁)。遺伝子介入も「個人」の選択に任せられているからオッケー、という単純な話ではないのだ。「ブキャナンらにおいては、『個人』の多元的な選択が尊重されるというのは、正義実現のための手段的な価値にすぎないのであって、その半面、国家の関与こそが優生主義的プログラムに内在する悪の根源だというわけでもない」(14頁)。子供への遺伝的介入が「生殖の自由」である限り、公共の利益との関係で、その自由は一定の制約に服する場合がある。なお、この問題は、もし遺伝子介入によって難病の出現等が防げるのであれば、医療サービス等の社会的な資源の配分に関わりが出てくるため、公共性を帯びた問題でもある。

*4:以下はメモである。フクヤマの著作を読んでいないのでなんとも言えないのだが、フクヤマの議論はよくある怪しい論法の一種であるように思える。孫引きであるが、フクヤマは次のように論じているそうだ。

「〔フクヤマは、〕『人間の尊厳』の基礎となる人間本性(human nature)というものを、客観的に測定することができると信じている。のちにも触れるように、彼は人間本性を、『道徳的選択、理性、そして幅広い感情といった人間独自の諸特徴の間の複雑な相互作用』に存するとし、この人間本性の統一性と持続性に変更を加えかねない遺伝子テクノロジーの進歩に歯止めをかけるべきだと考えるのである。この人間本性と同じように、健康も、決してフーコーが言うような社会的構築物ではなく、『生命体全体にとっての自然な機能』として客観的に決定できるのであって、これに応じて治療と改良も区別できると、フクヤマは言う」(17頁。原文にあった出典表示は略した)

 前半部は「人間本性」という曖昧な概念に一見それらしい定義を与えつつ、遺伝子テクノロジーはその定義に照らしてマイナスの効果を与えるからダメだ、と論じているように読める。多くの読者は、最初の概念の定義について深く考えないので、なんとなく納得してしまう。だが、代わりに「人間本性とは、さらなる知的進歩を実現しようとする精神作用である」といった定義を与えれば、むしろ遺伝子テクノロジーはその進歩を大幅に進める素晴らしい技術だということになる。こうした論法につき、さしあたり青木理音『IT社会の経済学』(インプレスジャパン、2011年)257頁参照。

*5:環境の改善に努める親は子供の「潜在能力」を引き出そうとしているだけであって、子供をもっと根本的に改変してしまう遺伝的介入とは区別されるべきだ、という考え方がありうる。しかし、こうした考え方こそ、「皮肉なことに、これはある意味で、遺伝子決定論に基づく誤解に根ざしている。親による環境的要素の操作によって引き出される潜在能力が、子供の中にあらかじめ用意されているわけではない。このような環境の操作は実際に、子供の体型、身体的能力、認知的・情緒的能力といった重要な表現型〔=生物の示す形態的、生理的な性質のこと〕に大きな改変を与えているのである。〔原文改行〕他方、すべての遺伝子型〔=生物がもっている遺伝子の基本構成。遺伝子の情報に基づいて発言された形質が表現型である〕の操作が、その個人の『本質』を改変するわけでは決してない。例えば、私の免疫システムのはたらきが遺伝子介入によって包括的に改良されたとしても、私はその遺伝子介入によって、自らの自己同一性そのものが変更を余儀なくされたとは考えないはずだ。むしろ、私が乳児期にワクチン注射を受けた場合と同じように、私はその遺伝子介入を『私という同一の人格に付加された身体的変化』と受けとるのではないだろうか。私の遺伝子型の要素すべてが、私の『自我』の中核を構成するわけではない。以上のように考えれば、遺伝子型への介入はその個人の本質的特徴を改変するのに対して、環境への介入は偶有的特徴を改変するだけだとは、簡単には言えないのである」(19頁。出典の表示は省略した。〔〕内は引用者の手による)。

*6:危害原理とは - はてなキーワード