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留年院生。絵描いてます。LGBT調べてます。憲法やってました(過去形)。ここはメモ帳です。

【読書】大切な練習から逃げない気持ちの作り方ーーエリック・ベルトランド・ラーセン『ダントツになりたいなら、「たったひとつの確実な技術」を教えよう』

読書

 ある技術についてプロ並の技術を身につけるには1万時間の練習が必要だという。毎日欠かさず1時間練習しておよそ27年という途方もない練習量である。

 我々はたいてい、ある技術を身に着けようと思って練習を始めても、100時間もしないうちにあっさり練習をやめてしまうものだ。下手なピアノで騒音問題を生じさせるよりは、ソファに寝そべってテレビを見ている方が楽しいのは間違いない。で、結局ピアノは埃をかぶって書類置き場に変化するわけである。

 では、我々がつまらない練習から逃げ出さず、大きな成果を達成するための地道な努力を続けるにはどうすればよいのだろうか?ネットサーフィンをやめて参考書を開くにはどうすればよいのだろうか?著者であるラーセンは、「メンタルトレーニング」がそれを解決するという。本書はラーセンの開発したメンタルトレーニング法を集約したものである。本書は練習方法について論じる本ではない。「練習する気になるための方法」について論じる本である。

 

ダントツになりたいなら、「たったひとつの

ダントツになりたいなら、「たったひとつの

 

 

 ラーセンはノルウェー国防軍空挺部隊出身の元エリート軍人であり、いまではノルウェー有数のメンタルコーチだ。ラーセンは、オリンピック金メダリストへのコンサルティングマイクロソフト等での講演を行う「勝者」と評すべき人間だが、しかし、彼は生まれつき成功を約束された人間だったというわけではないようだ。たとえば、こんなエピソードがある。

 

小・中・高校時代は、身体が小さく、いつも仲間はずれだった。サッカーチームの試合でも、最後の最後までベンチで待機していた。……ノルウェー士官学校の入隊試験を受ける前に、学校側から、お前には無理だと告げられていた。高校時代、威勢のいい同級生には、小柄でひ弱だと思われていたし、集団になじむのが苦手だった。家族は引越しが多く、何度も転校したので、親友ができなかった。小中学校時代には、いい思い出がほとんどない。方言で話し、クラスで一番背が低く、社交的でもないので、辛かった。

Kindle版No. 147)

 

 では、素晴らしい才能を持って生まれたわけでもないのに、なぜラーセンは卓越した成果を出すことができたのだろうか?

 ラーセンによると、「たぐいまれな結果を出せる人は、……日常の小さな『正しい決断』を下すのが上手なのだ」Kindle版No. 65)。その小さな決断とは、ランチの後にスポーツテクニックの研究をするかそれともテレビを観るかとか、朝パッと起きるか二度寝するかといった、本当に些細なものである。こういった小さな「正しい決断」の積み重ねが、生まれもった能力とは無関係に、将来的に大きな結果となってあらわれるのだ。

 しかし、二度寝するよりはパッと起きて健康的な朝食をとったほうがいいなんてことは誰だってわかってる。無意味にネットサーフィンするよりは本の1冊でも読むほうが身になることなど重々承知だ。知ってるけどネットサーフィンをやめられないのだ*1。そんな我々が小さな「正しい決断」を下せる人間になるためにはどうすればよいのだろうか?

 ラーセンは、メンタルトレーニングこそがその答えであるという。ラーセンによると精神的なフィットネスは単なるスキルに過ぎず、誰でもトレーニングによってメンタルを鍛えることができる。では、我々はどうやってメンタルを鍛えればいい?

 メンタルトレーニングについてラーセンが提示するアイデアの1つが、自分の「価値観」と「欲求」とを正確に知るということだ。ここでいう「価値観」とは、「あらゆることを総合して、あなたにとって一番大切なもの」Kindle版No. 435)のことをいう。それは健康とか、知識、成長や達成感といった要素だ。健康を大切にする人であれば健康的な食事をとろうとするように、価値観は特定の行動を強化してくれる。ここで重要なのは、「価値観」と「夢」とは同じではないということだ。価値観と夢とが両立しないこともありうる。たとえば、「安全・安心」を優先する価値観を持っているにもかかわらず、「起業する」というハイリスクな夢を設定する場合がそうだ。この場合には価値観もしくは夢のいずれかを修正するしかないが、価値観は夢や目標と違って変化しにくい。だから、前もって価値観を考慮に入れて夢や目標を設定することが重要になるのだ。ちなみに、私自身について考えてみると、私は「幸福」(厳密には「美」と「情愛」と「安全」の比重が極めて高められた「幸福」)という価値を重視しているのだが、現状をキープしても全然幸福になれそうな気がしないので、「本当は行きたくない方向に走っているトラックに乗って」いるということになるのかもしれない(Kindle版No. 323)。微妙だ。

 こういったメンタルトレーニングの目的は、我々がコンフォート・ゾーン、つまり「楽に過ごせる空間」から脱却することを目指す点にある。料理人になるためにはカップ麺ばかり作っていてもダメなのだ。そして、コンフォート・ゾーンから脱却することはあらゆる技術の上達にとって決定的な要素だ。ジョフ・コルヴァンがノエル・ティッシーの議論をひきつつ言うように*2、コンフォート・ゾーン(既にできることの領域)とパニック・ゾーン(難しすぎてできないことの領域)の間にあるラーニング・ゾーンでの努力こそが人間を成長させるのである。料理人になりたきゃハンバーグも作れってことだ。そしてハンバーグを作る気分になるためにはどうすればいいかを教えてくれるのが本書というわけである。

 翻って考えてみると、ラーニング・ゾーンの問題は部下や学生に指導する者にとっても重要なことだ。既にできることを訓練させても学生の能力は高まらないし、かといって難しすぎる訓練を与えても学生には対処不可能である。指導者には学生にラーニング・ゾーンでの課題を適切に与え、かつやる気を引き出しつつ、学生のコンフォート・ゾーンを広げていくことが期待されるのである。それは大変な仕事であり、片手間にできるものではなかろう。

 ダントツになりたい人、あるいはダントツになるつもりはないが青年将校ドローゴ*3のように人生を浪費したくはないという人におすすめ*4*5

*1:ネットサーフィンおもしろすぎる。

*2:ジョフ・コルヴァン『究極の鍛錬』Kindle版No. 1568。

*3:ブッツァーティタタール人の砂漠』の主人公。タタール人の襲来に備えて辺境の砦から砂漠を監視する任務についているドローゴが、「もしかしたらいつかタタール人と勇敢に戦う日がやってくるかも?」と期待していつまでも砦に居続け、そのまま人生を棒にふるというどうしようもない話。

*4:ただし、本書が要求する内容は結構ハードルの高いものであり、多くの人にとっては実践の難しいものかもしれない。

*5:なお、監修者である山口真由氏の解説文には少し疑問がある。これについては別に文章を書きたい。