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留年院生。絵描いてます。LGBT調べてます。憲法やってました(過去形)。ここはメモ帳です。

【読書】親が子どもの遺伝子を操作することは本当に許されないことなのか?ーー桜井徹『リベラル優生主義と正義』(2)

 以下の記事で紹介した桜井先生のリベラル優生主義と正義に関する話の続き。

 

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桜井徹の見解

 桜井はリベラル優生主義に対してどう応答するのだろうか?桜井は、遺伝子改良を(1)肉体的改良、(2)知的改良、(3)道徳的改良の3つに分けたうえで*1、こう述べる。

  1. 肉体的改良については、免疫系の改良といった「健康に関連する改良」については「最も道徳的に正当化しやすい」(195頁)。しかし、健康に関連しない身長や体格等の改良は「子供のライフ・プランを狭める可能性が高いので、リベラルな立場からしても正当化が難しい」(195頁。この点については前回の記事も参照)。
  2. 知的改良については、「……重要な利益の見込みがある以上、リベラルな危害原理に立っているかぎりは、この遺伝的改良を正面から否定することはむずかしい」(198頁)。
  3. 道徳的改良について、桜井は暴力犯罪の抑止という「危害」を予防するための遺伝子介入の危険性を指摘する。

 3の道徳的改良の点にこそ桜井の見解の独自性があるように思われるので、ここを詳しく見てみよう。まず、桜井は、ブルンナーらの研究を参照しつつ、人間の攻撃性・暴力的行動と密接に関係する遺伝マーカーが確定される可能性を指摘する。そして、「こうした遺伝子的因子の存否が見極められることの影響は、本人や家族だけでなく、むしろ社会全体に及ぶ」ことに注意を促す(201頁)。つまり、自由主義社会において、アルコール中毒や犯罪といった社会問題が「遺伝子」の圧倒的な影響のもとに生じているとされた場合、その社会問題は治療可能な「医学的問題」に置き換えられることを意味するのである。このことは、問題を抱える個人の社会的・経済的状況から人々の目をそらし、(それが「個人」の遺伝子の問題であるがために)国家や社会制度の現状を合理化・正当化してしまう。のみならず、国家や社会が「社会秩序の防衛のために遺伝子を管理する必要があるという認識が生まれないともかぎらない」(201頁。強調引用者、以下同じ)。さらに進んで、「国家が積極的に将来世代の遺伝的資質を改良するべきだという方向」へと国家の役割が拡大する可能性もある(202頁。傍点は削除した)。

 こうした危惧に加えて、桜井はさらに次の点を指摘する。社会問題を生みだすような暴力的性向を生みだす遺伝的因子が特定された場合、「この遺伝的因子をコントロールする技術が現実化するや否や、この暴力性・攻撃性の遺伝的因子を〔生殖によって〕次世代に引き渡すことに対する『責任』が問われる可能性が生まれる」(203頁。〔〕内引用者、以下同じ)。その場合、「生まれ来る子供が、道徳的・法的非難に値する攻撃的・暴力的傾向をもって誕生することを予防する遺伝的介入によって、〔犯罪抑止という社会的利益を目的として、〕犯罪件数の減少を図ろうとする社会政策を想像することができる」(同頁)。これは、もはや子の福利のための遺伝子介入とは全くの別物である。

 そして、このような遺伝子介入を、リベラル優生主義論者のブキャナンらは道徳的に否定しない。桜井はこう述べる。

「生まれ来る子孫それぞれの『善』の追求を容易にするための遺伝子改良を推進するリベラル優生主義が、例えば『犯罪予防・抑止』という集合的目標のための遺伝子改良を肯定するに至るまで、ほんの一歩しかない」(205頁)。

 また、攻撃性を抑えるようなタイプの道徳的改良は、現行の社会に人々を同化させることを助け、統治者にとって都合の良いものとなろう。さらに、この種の道徳的改良は人々の自由な「政治的理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない」(206頁)。

 そして、桜井はこの議論を次の通り総括する。

「リベラル優生主義は、個人的イニシアティヴに基づく遺伝的介入を『生殖の自由』の延長というかたちで正当化しようと試みたとき、リベラルな危害原理を究極的な根拠とせざるをえなかった。つまり、子孫のための遺伝子改良は、彼ら各々の『善』の追求を容易にするし、第三者にも社会にも何の害も危険も与えない、という正当化根拠に最終的に訴えたのである。しかしこのことが同時に、将来における遺伝的介入技術の展望が、暴力犯罪という『危害』の発生を抑止する可能性を示したとき、その技術の利用を拒むことを原理的に極めてむずかしくしたのである。これも、ある種の論理的なアイロニーだと言える」(208-209頁)。

 

桜井の議論への疑問

 (追記2017年4月19日:下記のコメントには問題があるので近いうちに修正します)

 

 なるほど桜井の議論はわかりやすく説得力があるように見えるが、疑問がなくもない。

 先に紹介したとおり、桜井は、206頁以下で、道徳的改良が人々の自由な「政治的理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない」と述べていた。かなり長くなるが、この点をもう少し詳細に引用してみよう。

 〔A〕「イエスやガンジーキング牧師の例が示すように、攻撃性は、現状の権力構造や不正義に対する正当な批判精神や反逆心と結びついている場合もあり、そのような攻撃性の現れは道徳的に中立的か、むしろ望ましい政治的実践にもなりうると考えられる。このような批判的精神に支えられた攻撃性・反抗心は、社会構造に関するより優れた構想の『芽』にもなりうるものだからである。このように社会改革の芽にもなりうる攻撃性を、『社会的目的』という名のもとで事前に詰んでしまうことは、――ちょうど〔ハクスリーのディストピア小説〕『すばらしき新世界』における〔幸福感と楽しい幻覚を与える薬剤である〕ソーマと同じように――人々の社会的同化を巧妙に進めるだけでなく、生まれ来る個々人の政治的な理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない。つまり、社会的目的の遺伝的介入による攻撃性・暴力性の除去が、『批判的精神をもって一定の政治的な信念を選択し追求する自由』をあらかじめ排除する方向にはたらく可能性があるのではないか、ということである

 〔B〕このように、道徳的改良をとりわけ『犯罪の抑止』などという社会的目的のために推し進めることが、人間の包括的な価値観・信念を構造的に狭める恐れがあるとすれば、それは『開かれた未来への権利』を子供たちに保障しようとするリベラル優生主義の観点からも是認すべきでないと思われる。なぜなら、われわれの政治的な理念や実践の形成そのものに大きな影響を与えうる道徳的改良は、公共生活における諸制度やその運営に対してわれわれが主体的に修正や異議を申し立て、文字通りの自律を達成することを妨害する可能性を持つからである。生活共同体において政治的に自律をなしとげられないおそれのある環境で、そもそも『開かれた未来』が保障されていると言えるのか、きわめて疑わしい。この場合、社会的目的の遺伝子介入を、無数の個人的目的の遺伝子介入へと安易に還元することももちろんできない。政治的・社会的体制の維持に利益を有する者にとって、社会的目的の道徳的改良がもつ意味は、個人的な肉体的・知的改良がもつ意味とはまったく異なるのである」(206-207頁。原文の出典表記は省略した) 

  ここで重要なのは、〔A〕の箇所である。この箇所において、桜井は、「社会的目的の遺伝的介入による攻撃性・暴力性の除去が、『批判的精神をもって一定の政治的な信念を選択し追求する自由』をあらかじめ排除する方向にはたらく可能性があるのではないか」と述べている。〔B〕の箇所は、後述する桜井自身の立場からの批判的応答である。

 しかし、これは危害原理を採用する従来のリベラル優生主義の立場からも十分に応答可能な問題なのではないだろうか。リベラル優生主義においては、「遺伝子介入はあくまでも、生まれ来る子供が自由にライフ・プランを選択できる範囲を狭めないかぎりにおいて許される」(187頁)にすぎない。ところで、攻撃性や暴力性は、たとえばスポーツや学術研究等にとって重要である。野球やサッカーといったスポーツには攻撃性が大きく関わってくる(攻守の概念がないスポーツは別だが)。とくに、格闘技のように、攻撃性や暴力性の発現それ自体がスポーツになっている場合もある。学術研究や政策論争等においても、攻撃性は議論の応酬に寄与し、発展的な議論を生みだすのに欠かせないように思われる。こうした見方が認められるとすれば、攻撃性や暴力性を抑制するような遺伝子介入は、子供のライフ・プランの自由な選択を脅かすおそれがあるといえよう(たとえば、攻撃性や暴力性が抑制された子供は、プロボクサーとしてやっていけるのだろうか?)。

 そうであるとすると、リベラル優生主義の立場からしても桜井の問題意識に応答できるのだから、桜井が次の通り述べたうえで行った上述の〔B〕の議論は、「道徳的改良の問題におけるリベラル優生主義の限界の指摘」としては成功していないように思われる*2

「リベラルな社会観が多様な発展を保障すべきなのは、個々人の『ライフ・プラン』だけではなく、より包括的な『価値観』ともいうべきものだと主張したい。言い換えれば、リベラルな社会に生まれ来る子供にとっては、個人的なライフ・スタイルや職業に関して幅広い選択肢が開かれているだけでは不十分であって、公共生活の枠組みや社会的制度の修正・改善にも自らの価値観に基づいて自由に参加できる余地が与えられる必要がある」(190頁)。

  桜井の議論に対してこうした反論が可能になってしまう理由は、リベラル優生主義のいう「ライフ・プランの選択」という概念と、それが狭められているか否かの判断基準があいまいな点にあるのかもしれない。

 

その他:同性愛とか自閉症とかメカ少女とか殺人ロボット・アーム

 (ブキャナンらの著作を読んでいないことを先に断っておくが)ブキャナンらのように機会の平等といった観点から遺伝子介入を正当化するならば、たとえば我が子がLGBTQ(同性愛者等)であるとか自閉症自閉症スペクトラム)であるといったことが判明した場合に、それを「修正」する遺伝子介入を行うことは正当化されるのだろうか(誰だったか忘れたが、自閉症児は中絶するのが倫理的要請であると説いていた哲学者がいたと思う。その哲学者は自閉症児の親でもある)?同性愛者等の性的マイノリティは、「ノーマル」な人たちと比べると、事実の問題として、様々な点で機会の不平等を被っている。仮に遺伝子介入技術によって同性愛等が「治療」できるようになったとき、機会の平等を回復するために我が子を「治療」して「ノーマル」にすることは、親の「生殖の自由」に基づいて正当化できるのだろうか*3自閉症の場合はどうだろうか?小児性愛の場合はどうだろうか?問題は無限に広がっていくようにも思われる(この議論は、憲法学においてしばしば語られる「実質的な機会の平等」という謎概念を思い出させる。「実質的な機会の平等」はその具体的内容があいまいで外延が不明確なのだが、個別の不平等事例を解決する魔法の杖として使われているように感ぜられる)。

 なお、私が個人的に気になっているのは、自分の腕をサイバーパンクめいた殺人ロボット・アームに取り替えたり、首元にLAN直結端子をインプラントしたり、なんかよくわからないスゴいものを発生させるジェネレーターをはめ込んだりといった生体機械化(サイバネ化)の可能性である。サイバネ化と遺伝子介入とはどう違うのだろうか?異なる道徳的評価が与えられるべきであるとすれば、それはなぜだろうか?メカ少女好きとしては一度調べておきたい問題である。

 

メカ少女とは (メカショウジョとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

*1:この分類はウォルターズ&パーマーの分類に基づいたものである。

*2:念のため述べておくが、本書は、「リベラル優生主義は間違っている」といった主張をするものではない。

*3:関連して、ヴァネッサ・ベアードは同性愛の原因に関する科学的探求の文脈について論じる中で、次の通り述べている。「ゲイの権利に反対する人々は彼らの政治課題を追求しているのであり、その大義を支えるために医学を利用できなければ、他の何かを使うだけだろう。〔原文改行〕たとえば、ホモフォビア〔=同性愛嫌悪〕が存在し、性的マイノリティたちのために十分な市民権が存在しない社会では、『ゲイ遺伝子』を見つけることは、相当な危険も伴う可能性がある。『ゲイ遺伝子』は、ゲイたちを『治す』ための遺伝子治療につながるかもしれない。出生前の検査により子宮の中の遺伝子を検出し、ゲイの胎児を中絶させるかもしれない。あるいは、ゲイの赤ん坊たちをヘテロセクシュアルに変える出生前の治療につながるかもしれない」(ヴァネッサ・ベアード〔町口哲夫訳〕『性的マイノリティの基礎知識』〔作品社、2005年〕128-129頁)

【読書】親が子どもの遺伝子を操作することは本当に許されないことなのか?ーー桜井徹『リベラル優生主義と正義』(1)

「優生主義(優生学)」の復権

 知的障害者施設において多くの障害者が元職員の男に殺害された津久井やまゆり園事件(相模原障害者施設連続殺傷事件)からもう半年以上経つ*1。この津久井やまゆり園事件は、戦後最大の大量殺人事件としてニュースになったが、元職員の男の言動から、優生主義の絡む問題として受け止める向きもあった。

 優生主義(優生思想、優生学)とは、遺伝学的に人類をより優れたものにしようとする考え方のことだ。この考え方に基づき、20世紀のナチス・ドイツやアメリカが障害者等に対する強制的断種を実施したことはよく知られている。

 優生主義は負のレッテルの代表格である。優生主義に基づく政策や行動は「疑いなき悪」であり、いかなる理由があっても許されない行為であると考えられている*2。だが、本当にそうだろうか?たとえば、「遺伝性の難病を抱えて生まれてくる我が子を病気から守るために、バイオテクノロジーを利用して子供の遺伝子に介入する」ようなケースにおいても、その遺伝子介入は許されない行為なのだろうか?また、親が子供により高い能力を与えるために遺伝子に介入することは許されないのだろうか?

 本書『リベラル優生主義と正義』が検討・批判対象とする「リベラル優生主義」の提唱者たちは、親の「生殖の自由」を根拠にこうした遺伝子介入を正当化する。

 

リベラル優生主義と正義

リベラル優生主義と正義

 

 

リベラル優生主義とは何か?

 リベラル優生主義とは、 「親が自らの子供の福利のために、バイオテクノロジーを利用して子供の遺伝的特徴を改善することを、『生殖の自由』の延長線上に位置づけて擁護する立場」を指す(3頁。強調引用者、以下同じ)。

 さて、リベラル優生主義の中心的主張は、次の3つの要素に分けられる(11頁。やや長くなるので、流し読みしてもらってもいいと思う)。

  1. 【親の自発的選択による遺伝的改良の承認】「バイオテクノロジーによって子孫に付与される遺伝的特徴を決めるのは、国家や社会ではなく、その親という『個人』である」(11-12頁)。この点で、リベラル優生主義は、20世紀のナチスやアメリカのように国家が「望ましい/望ましくない遺伝的特徴」を決めつける「権力主義的優生主義」とは全く異なる。「親がその子供のためになす遺伝的改良は、……『生殖の自由』の延長線上に位置づけられる」のである(12頁)*3
  2. 【遺伝子介入による「治療」と「改良」との区別に道徳的な重要性を認めない】遺伝子テクノロジーの進歩に政治的規制をかけるべきだ、と主張する論者の中には、「健康の回復を目的とする『治療』であれば遺伝子介入も許されるが、もともと正常な状態を『改良』するための遺伝子介入技術の研究は制限すべきだ」との立場をとる者がいる(16頁)*4。だが、リベラル優生主義の論者たちは、治療と改良の厳密な区別が不可能であることを強調する。たとえば、遺伝子介入による更年期障害の「治療」は、それが加齢に伴って普通に現れる現象であるために、身体機能の「改良」という面も持つ、といった具合である。

  3. 【人間の改善につき、環境の改変によるものと遺伝子の改変によるものとの間に道徳的な違いを認めない】面白いことに、リベラル優生主義は「遺伝子の在り方が人間形成に決定的な影響力を及ぼす」という考え方を受け入れない。遺伝子だけではなく、環境の在り方も人間の発達に影響を及ぼすことを積極的に認めているのだ。これは、かつては断種まで行った優生主義という考え方に反するように思えるかもしれない。しかし、実はこれこそがリベラル優生主義の巧妙なところだ。つまり、遺伝子だけが特別な重要性を持つわけではなく、「遺伝子と環境とが人間の諸特徴の形成に同等の重要性を持つとしたら、遺伝子の改変によって能力の改善を図ろうとも、環境――食事、教育、訓練、しつけ等――の改変によって能力の改善を図ろうとも、これら二つの方法は同等の道徳的評価を受けるべきだ」と考えるのである(18頁)。我が子を立派な学校に入れて子供の知的能力を発展させる自由は当然のように親に認められているのに、(必ずしも決定的な影響を与えるとは限らないにもかかわらず)知能を高めるための遺伝的介入が認められるべきではないというのはおかしくないだろうか?*5

 

危害原理に基づくリベラル優生主義の自己規制

 リベラル優生主義に対してはもちろん反論もある(別に記事を書く予定)が、リベラル優生主義陣営からの再反論もあり、簡単には決着がつきそうにない。このことは、現在の優生主義は、そう簡単には退けられないほど理論的に洗練されたものになっているということの証明なのかもしれない。

 さて、それほどまでに洗練されたリベラル優生主義に対し、桜井はどう考えるのだろうか?

 桜井の見解を見る前に抑えておくべき重要な点は、リベラル優生主義が「危害原理」を前提にしているということだ。危害原理とは、「他人が相手の自由に干渉できるのは、その相手が他人に危害を与える可能性があることを原則とする」考え方である*6。雑な言い方だが、他人に迷惑をかけない行為は放っておくべきである、というとわかりやすいかもしれない。

 この危害原理は、社会に何の害も与えないような遺伝子介入を強力に正当化するが、子供に害を与えるような遺伝子介入等を拒絶する。よって、「遺伝子介入はあくまでも、生まれ来る子供が自由にライフ・プランを選択できる範囲を狭めないかぎりにおいて許されることになる」(187頁)。ウエイトリフティングの選手に有利なガッチリした体型を与える遺伝子介入は、子供がバスケットボール選手になるのに不利に働くだろう。こうした遺伝子介入は認められないというわけだ。

 

 このあと、リベラル優生主義に対する桜井の見解が述べられるのだが、長くなったので別に記事を用意しようと思う。気になる方はそちらを御覧ください。

 

追記(2017年4月11日)

続きです。桜井先生の見解と個人的なコメントを書きました。

 

arbor-vitae28.hatenablog.com

 

*1:津久井やまゆり園事件については、さしあたり以下を参照。

相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia

「津久井やまゆり園」事件、雑感: 極東ブログ

*2:桜井は、「明確な意味を欠く非難の表現として利用されているという点で、『優生学』『優生主義』という後は、しばしば着床前遺伝子診断に対して投げかけられる『生命の選別』という表現と共通するところがあるようにみえる」と述べている(5頁)。

*3:なお、桜井によれば、リベラル優生主義の提唱者であるブキャナンらにとって、「優生主義の中心を占める倫理的問題は個人的選択というよりも、むしろ社会正義なのである」(13-14頁)。遺伝子介入も「個人」の選択に任せられているからオッケー、という単純な話ではないのだ。「ブキャナンらにおいては、『個人』の多元的な選択が尊重されるというのは、正義実現のための手段的な価値にすぎないのであって、その半面、国家の関与こそが優生主義的プログラムに内在する悪の根源だというわけでもない」(14頁)。子供への遺伝的介入が「生殖の自由」である限り、公共の利益との関係で、その自由は一定の制約に服する場合がある。なお、この問題は、もし遺伝子介入によって難病の出現等が防げるのであれば、医療サービス等の社会的な資源の配分に関わりが出てくるため、公共性を帯びた問題でもある。

*4:以下はメモである。フクヤマの著作を読んでいないのでなんとも言えないのだが、フクヤマの議論はよくある怪しい論法の一種であるように思える。孫引きであるが、フクヤマは次のように論じているそうだ。

「〔フクヤマは、〕『人間の尊厳』の基礎となる人間本性(human nature)というものを、客観的に測定することができると信じている。のちにも触れるように、彼は人間本性を、『道徳的選択、理性、そして幅広い感情といった人間独自の諸特徴の間の複雑な相互作用』に存するとし、この人間本性の統一性と持続性に変更を加えかねない遺伝子テクノロジーの進歩に歯止めをかけるべきだと考えるのである。この人間本性と同じように、健康も、決してフーコーが言うような社会的構築物ではなく、『生命体全体にとっての自然な機能』として客観的に決定できるのであって、これに応じて治療と改良も区別できると、フクヤマは言う」(17頁。原文にあった出典表示は略した)

 前半部は「人間本性」という曖昧な概念に一見それらしい定義を与えつつ、遺伝子テクノロジーはその定義に照らしてマイナスの効果を与えるからダメだ、と論じているように読める。多くの読者は、最初の概念の定義について深く考えないので、なんとなく納得してしまう。だが、代わりに「人間本性とは、さらなる知的進歩を実現しようとする精神作用である」といった定義を与えれば、むしろ遺伝子テクノロジーはその進歩を大幅に進める素晴らしい技術だということになる。こうした論法につき、さしあたり青木理音『IT社会の経済学』(インプレスジャパン、2011年)257頁参照。

*5:環境の改善に努める親は子供の「潜在能力」を引き出そうとしているだけであって、子供をもっと根本的に改変してしまう遺伝的介入とは区別されるべきだ、という考え方がありうる。しかし、こうした考え方こそ、「皮肉なことに、これはある意味で、遺伝子決定論に基づく誤解に根ざしている。親による環境的要素の操作によって引き出される潜在能力が、子供の中にあらかじめ用意されているわけではない。このような環境の操作は実際に、子供の体型、身体的能力、認知的・情緒的能力といった重要な表現型〔=生物の示す形態的、生理的な性質のこと〕に大きな改変を与えているのである。〔原文改行〕他方、すべての遺伝子型〔=生物がもっている遺伝子の基本構成。遺伝子の情報に基づいて発言された形質が表現型である〕の操作が、その個人の『本質』を改変するわけでは決してない。例えば、私の免疫システムのはたらきが遺伝子介入によって包括的に改良されたとしても、私はその遺伝子介入によって、自らの自己同一性そのものが変更を余儀なくされたとは考えないはずだ。むしろ、私が乳児期にワクチン注射を受けた場合と同じように、私はその遺伝子介入を『私という同一の人格に付加された身体的変化』と受けとるのではないだろうか。私の遺伝子型の要素すべてが、私の『自我』の中核を構成するわけではない。以上のように考えれば、遺伝子型への介入はその個人の本質的特徴を改変するのに対して、環境への介入は偶有的特徴を改変するだけだとは、簡単には言えないのである」(19頁。出典の表示は省略した。〔〕内は引用者の手による)。

*6:危害原理とは - はてなキーワード

【読書】トップクラスになるための練習法ーーアンダース・エリクソンほか『超一流になるのは才能か努力か?』

 1999年公開の映画『マトリックス』の主人公ネオ(キアヌ・リーブスが演じていた)は、コンピュータの支配する仮想世界マトリックスの中で自分自身にカンフーの技術を「インストール」して戦っていた*1。ボタン一つでカンフー・スキル習得というライトノベル級のお手軽仕様である。幸か不幸か、現世はマトリックスではないので、ワンタッチでチートキャラになれる科学技術は存在しない。我々がカンフー・マスターになるには地道に練習するしかないのだ。

 だが、カンフー・マスターにはなりたいが、そのための練習はしたくないと考えるのが人間である。そうなると、効果的な練習、つまりできるだけコストのかからない練習は何か?という点に目が行くことになる。

 というわけで手に取ったのが本書である(本書の著者、アンダース・エリクソンは心理学者)。

 

超一流になるのは才能か努力か?

超一流になるのは才能か努力か?

 

(この手の本にはビミョーな邦題がつけられることが多いが、本書もその例に漏れない)。

 

 さっそく夢を打ち砕く話をすると、「てっとり速く上達する方法はない」(kinde版No.3985)。嫌な話を聞いた。とはいえ、有効な練習と有効でない練習というものはもちろんある。エリクソンいわく、「さまざまな練習法の中で最も効果が高いのは限界的練習である」(同)。では限界的練習(deliberate practice)とは何か?

 限界的練習は、「学習者を『そこそこ上手』ではなく、それぞれの分野で世界トップクラスにするという明確な意図を持って開発された方法論」である(No.304)。大雑把にいって、限界的練習には次のような特徴がある*2

  1. 【教師がいる】練習カリキュラムを組み立てる優れた教師がいる。
  2. 【練習課題は少し難しい】常にコンフォート・ゾーン(=楽にできること)の少し外側、つまり現在の能力をわずかに上回る課題に挑戦しつづけることを求める。限界に近い努力が求められるので、一般的に楽しくはない。
  3. 【具体的目標がある】限界的練習には明確に定義された具体的目標がある。
  4. 【集中力が必要】学習者には、全神経を集中し、意識的に取り組むことが求められる。
  5. 【フィードバックを参考にできる】フィードバックと、それに対応した取組み方への修正が必要である。
  6. 【心的イメージとの相互影響】限界的練習は有効な心的イメージ*3*4(「脳が今考えているモノ、概念、一連の情報など具体的あるいは抽象的な対象に対応する心的構造のこと」(No. 1353)。我々が何も考えずペンを持てるのも、いま文章を左から右へ、そして下側へ読んでいるのも、すべて心的イメージの産物である)を生み出すとともに、それに影響を受ける。
  7. 【地道な改善】すでに習得した技能の特定の側面に集中し、それを向上させることでさらなる改善や修正を加えていくことが多い。時間をかけて一歩ずつ改善していくことになる。

 では、なぜこうした特徴を持つ練習(=限界的練習)は強力なのか?ここが面白いのだが、エリクソンは、限界的練習が「ホメオスタシス」という人間の能力に噛み合っているからだとする。ホメオスタシスとは、一定の環境の変化を受けた人間の身体が、生理状態などを一定範囲内に調整し、恒常性を保とうとする働きのことだ。そして、限界的練習によって激しい負荷がかかった身体は、その状況に適応するために変化していく。

 

身体システム(特定の筋肉、心臓血管システムなど)にホメオスタシスを維持できないほどの負荷がかかると、身体はそれに反応してホメオスタシスを新たに確立することを目的とする変化を生み出す。たとえばあなたが有酸素運動のプログラムを始めるとしよう。心拍数を最大心拍数の70%という推奨されている水準(若者の場合毎分140回を少し上回る程度)に維持しながら週3回、30分ずつジョギングをするのだ。このような運動を続けていると身体に起きる変化の一つが、足の筋肉に酸素を供給する毛細血管の中の酸素レベルの低下である。身体はそれに反応して、足の筋細胞への酸素供給を増やすために新たな毛細血管を増やし、再び細胞をコンフォート・ゾーン〔=楽な状態〕に戻そうとする(No.993。強調および〔〕は引用者)。

 

 つまり、激しい訓練がホメオスタシスにあらがった結果、その負荷に適応するために肉体や脳それ自体が「作り変えられる」というわけだ*5*6

  さて、この限界的練習であるが、どうみても難しすぎる。普通の人にはまず無理だ*7。まず大抵の場合、我々が学びたいと思う分野の先生につくこと自体が難しい*8。そもそもどの先生が一流なのかもわからないのに、一流の人間を見つけて教えを請えといわれても困る。無理ゲーとしか言いようがないのではないか?

 この点につき、エリクソンは、「あなたの専門分野が厳密な意味での限界的練習にそぐわないものであっても、できるだけ効果的な練習方法を考える指針として限界的練習の原則を使うことは可能だ」(No. 2068)と述べている。たとえば、教師役がいないとしても、エキスパートが本やインタビューで語っているアドバイスを参考にすることはできる。シナリオライターのように、ある人物がエキスパートであるか否かを客観的に判断することが難しい場合には、同業者(他のシナリオライター)からの評価を調べるという手もなくはない。その分野に造詣の深い人に尋ねるという手もある。もしエキスパートを見つけることに成功したならば、(簡単なことではないが)「次のステップは彼らのパフォーマンスは具体的にどこがその他大勢と違うのか、彼らがその域に達するのに役立った訓練方法がどのようなものかを突き止めること」である(No. 2181)。何がエキスパートをエキスパート足らしめているのか、それを考える必要がある。

 いや結局難しすぎるだろうという気はするが、まぁできなくはないかもしれない。いまはインターネットの時代。自分の制作物の制作プロセスを公開しているクリエイターは多い。TwitterなどのSNSを通じて練習方法などを尋ねてみるのもよいだろう。まーなんですか、「先生の作品に感動しました!僕も先生のようになりたいです!先生はどんな練習をしてきたんですか!?」とか聞いてみれば教えてくれるんじゃないですか。ブロックされるかもしれないけど。

*1:と思うんだけどなにぶん見たのが随分と昔なので違うかもしれない。

*2:詳細はNo.2017以下参照。なお、エリクソンは、自身の研究結果を通して、「分野を問わず、技能を向上するための最も有効な方法は例外なく、同じ一般原則を満たしている」と書いている(Kindle版No. 273)。

*3:心的イメージという概念は、学問であれ芸術であれ、何かしらのスキルの訓練を続けた人間には理解しやすいのではないかと思う。たとえば法律学をずっと学んできた人は、法的問題に出会ったとき、適切な条文と適切な解釈を即座に呼び出せるようになる。なぜそのようなことができるのかと問われても、説得的な説明はできない(できるからできるとしかいえない)。あれ、そう、あれです。

*4:なお、エリクソンは、「限界的練習の大部分はその活動に役立つ有効な心的イメージを作り上げていくためのものだ」と述べている(No. 1353)。

*5:なお、こうした訓練が脳に及ぼす影響は若い頃の方が大きい点、認知的・身体的変化はメンテナンスしなければ消失してしまう点、長期間にわたる訓点によって脳の一部を強化すると何らかの別の能力が低下する場合があるという点もなかなか興味深い(この点につき、No. 1111以下参照)。

*6:エリクソンはここで多くの研究を引用しているが、紹介すると煩雑になるので、気になる方は書籍の方を読んでほしい。なお、私はそれらの論文までは参照していない(論文を引用して自説を権威づけるケースでたまに見られるが、根拠となっている論文自体が薄っぺらく説得力に乏しかったり、あるいは論文の主張の射程を超えた見解を引き出していたりするケースがある)。もちろん本書がそういう引用をしていると言っているわけではない。

*7:本書は「普通の人」ももちろん念頭において書かれているし、うまくいった人たちの話もされてはいるのだが。

*8:たいていの人には、個人指導をしてくれる(=学習者に合ったカリキュラムを組み、適切なフィードバックをくれる)先生に教えてもらうための時間もお金も意欲もない。そして、そういう先生が近場で教えているとは限らない。