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絵描いてる人のメモ帳です。諸般の事情により現在一時停止中。

【メモ】テラケイ氏(@terrakei07)のバーチャル・ユーチューバー論「魂を縛る檻を壊せ」を読んだ

 テラケイ氏のバーチャル・ユーチューバー論を読んだ。私がこれまで考えてきたところと符合するところも多く、興味深く面白いものであった。本当は色々気になるところもあるのだが、ちょっと訳あって今忙しいのであまり深く考える時間もない(無職なのにへんだね)。ただ、やや気になる点があったので、単なる覚書きに過ぎず、さほど示唆的なものでもないが、文章に残しておこうと思う(テラケイ氏のnoteは有料記事なので、論旨の説明に必要な範囲でのみ引用する*1)。なお、私はVtuberとかそういったことにそれほど詳しい人間ではないので、以下の文章には事実誤認等がありうる、ということは先に述べておく。

 

 

魂を縛る檻を壊せ――白饅頭のVtuber/VRアバター評|白饅頭 @terrakei07|note(ノート) https://note.mu/terrakei07/n/nf7fde968aec4

 

テラケイ氏の議論 

 昨今、3DCG等を用いたアバターを利用して実況配信を行うユーチューバー(バーチャル・ユーチューバー。以下、単に「Vtuber」と表記する)が増加している。こうしたVtuberブームについて、テラケイ氏は「なぜ生身の人間ではなく、あえて「バーチャル」な存在として登場したキャラクター性がここまでウケたのだろうか」と問題提起したのち、次の通り述べる。

Vtuber、VRアバターの普及は、人間のあり方、あるいは人間性そのものに、ひょっとしたら巨大な革新(カタストロフィー、とルビを振りたいくらいだ)をもたらすかもしれないとまで考えている。

 こうした仮想現実・仮想人格コンテンツの勃興は、長年言語化できずため込んでいたさまざまな思考を一気に解きほぐし、人間の存在価値そのものの根源的な問いを導出してくれた」。

※太字強調は引用者の手による。以下同じ。

 

 テラケイ氏によると、こうしたバーチャルな存在性に自分を仮託するのは、「『かわいい自分になった世界』を、ゼロベースでスタートできるから」だという。つまり、ユーチューバーとして活動するためには、例えば声付き実況・顔出し実況といった形で我々の肉体を利用する必要があるのだが*2、我々の肉体は往々にして不要な情報まで受け手に与えてしまう(もっともわかりやすい例が容姿だろう。我々は自他の容姿の良し悪しが気になって仕方ない生き物である。いわゆるジェンダー・ロールの問題もここに含まれるだろう)。しかし、バーチャル・アバターに我々の肉体を代替させることで、我々の肉体が放つ不要な情報を排除しつつ、アバターの可愛らしさといった心地よい情報を存分に表現することができる*3*4

 

 テラケイ氏は、そうしたVtuberとしての特性こそ、ユーチューバー自身にとって、そして視聴者にとって都合の良いものであったと主張しているようだ*5。そして、こうした要素が現在のVtuberブームの底流にあるのではないか、と指摘しているようである。

 

 そして、(ここからが重要な点なのだが)上述したVRアバターに自己の肉体を代替させることの意味について、さらに掘り下げて次の通り述べる。

「自分の姿が、むさ苦しいものであること。美しくもかわいくもないこと。異性からは、かりに何もしていなくても場合によっては不審なものとしてみなされること。男という存在にかんして身体性が紐づくかぎり、その価値が乏しいこと。自分の身体からは「これまでの自分の生まれ育ち」といった連続性が、自分が語らずとも非言語的なメッセージとして、周囲に放出されそれを抑えることはできないこと。

 VR空間にあつまる「Kawaii(かわいい)」おじさんたちは、そんな自己の身体性という前提条件からは自由な空間で、自分の精神を表現することができる。現実社会の数々のアンフェアを盛りこんで雁字搦(がんじがら)めになった肉体を捨て、フェアな精神性の世界へと移行するのだ。」

 

  こうした自己の身体性からの解放がもたらすものの一つとして、「harmless(無害である)」という興味深い要素を提示する。

「美少女おじさんたちが目指しているKawaiiの姿とは、たんに『cute:キュート、外見的な可愛らしさがある』ということだけではない。

 『cute』であることはもちろんだが、なにより『harmless(無害である)』という地平への道である。おじさんであるというだけで、他者に不愉快な気持ちを、あるいは被害を与えるかもしれないという不安感を振りまいてしまいかねない、その実体にこびりついた『意に反する暴力性』を清拭するための試みである」。

 

 興味深い観点だが、個人的見解としては、「おじさんである」といった部分や成人男性の「有害性」、「harmless(無害である)」といった要素にまで踏み込まずとも、単に「社会的コンテクストから切り離された無垢な存在として存在することが許されるから」、と説明すれば足りるように思われる。なぜなら、テラケイ氏が指摘した通り、肉体の持つ社会的な情報そのものが既に配信者・視聴者の両方にとっていとわしいものであり、それは男女問わないものだと考えるからだ*6。さらに私見を述べれば、美少女等のVRアバターを人々が利用する理由は、社会的コンテクストからの解放という願いにとどまるものではない。それはある種の「聖なるもの」あるいは「神聖さ」への自身の仮託であって、より積極的な行為として把握されるべきものである。アニメやマンガのキャラクターにはしばしば性的な、あるいは道徳的な清らかさが求められるが、ここにいう「聖なるもの」あるいは「神聖さ」は、それに近いかもしくは同一のものである。そして、それはキャラクター等に「聖なるもの」を見出す文化でしか生まれないものであり*7、そういう意味では、VRアバターの利用がより一般的なものとなったとしても、たとえば海外の実況者など、美少女キャラクター等にそうした神聖さを見出さない人(=そうした文化を内面化していない人)は、これを積極的に利用しようとはしないだろう。こうした観点からすれば、VRアバター等の利用という面においては、後述の「精神の解放」は、比較的ローカルな革命となる可能性がある。

 ただ、この見解については、まだそれほど考察できていないので、これ以上詳論しない。

 

 さて、テラケイ氏はこうしたVR技術によって「精神の解放」という革命的な事象が生じようとしているとする。

「内なる美少女の再発見は、そのコンテクストによって埋もれた、文脈に縛られない精神の姿を投影する。自分がもし、いまの肉体と違っていたら、どうしただろうか。可愛い少女の姿として人生を過ごせていたら、どうしただろうか。肉体が伝える社会的文脈を前提にしてはけっして考えようもしなかった、「精神の解放」が、いままさに起きようとしているのだ」。

 

 しかし、私の推測するところによれば、そんな理想のカワイイに基づく「精神の解放」は、すでにマンガやイラストの創作行為という形で表出されてきたように思われる*8。少なくとも私が絵を描くモチベーションは、私の持つ社会的文脈から解放された「ぼくのかんがえた究極ウルトラKawaii美少女」、つまり自分の信じる「Kawaii」を絵という形で顕現させたいという欲望に、少なくとも部分的に支えられている*9。そして、そうした心理の認識は、マンガやイラストを描くような人間にはある程度共有されつつも、そのことが改めて宣言されたことはあまりなかったのではないかと推測する。つまり、ここにいう「内なる美少女」としての自分の表出はこれまでも目に見えないところでずっとなされてきたのであって、そうした活動がVtuberの登場によって可視化されただけではないか*10

 もちろんこれは推測のうえでの話だし、もっといえばテラケイ氏の主張の根幹部分を揺るがすような問題でもない。ただ、仮に上記の見方が正しいとすれば、Vtuber(あるいはVRアバター利用の隆盛)というムーブメントの意義は、むしろ「『精神の解放』が、いままさに起きようとしている」点に求められるのではなく、これまでほとんどの人が気づいていなかった「精神の解放」の在り方のひとつをわかりやすく提示した点、そして、従来のものより利用コストが低いアプローチである点*11に求められるのではないか*12

 

余談

 ところで、私が知りたかったこと(この記事を購入した理由といってもよい)のひとつに、なぜ「女の子の『Kawaii(かわいい)』」でなくてはならないのか、というものがある。もし私がVtuberをやるなら、アバターは「Kawaii」女の子を選び、声は音声認識+自動読み上げ(女性ボイスロイド)で対応するだろう。しかし、我々の肉体を代替するもの(絵でもアバターでも)として、なぜ「Kakkoii(かっこいい)」が選ばれないのか*13。あるいは、なぜ「動物等の『Kawaii』非人間キャラクター」が選ばれないのか*14。つまり、イケメンキャラクターやネコちゃんワンちゃんのアバターに「男性の有害性」に類するような忌避要素があるようにも思われないが、それが選ばれないのはなぜなのだろうか。テラケイ氏の記事にこうした点に関する言及はない(もちろんテラケイ氏がこの問題に言及しなくてはならない理由はない。個人的な問いに答えてないからといってケチをつけるのはあまり好ましい態度であるように思われない。ただ、私見の観点からは、女性キャラクターの方が男性キャラクターや動物キャラクターよりもいっそう「神聖なもの」とみなされているからではないか、と推測する*15)。

 また、ひとつ気になるのは、海外の実況では顔出し配信こそ人気があるということである。このことは、「自己の身体性」のネガティブな側面に関する指摘が、日本を中心としたローカルな範囲にとどまるものであることを示しているかもしれない(これは、さきに述べた「聖なるもの」云々の話とも関わる点である)。

 


✈【世界のゲーム生放送事情】ゆっくりのSteamひみつ探偵団7

(このさきれむ氏のこの動画では、海外のゲーム実況者の実況風景をいくつか見ることができる。なお、このさきれむ氏はTwitchについて、「ここの日本人配信者も、FPSLOLなど海外で人気のゲームを扱う人が多く」「また、海外の配信者のように、顔出し配信の割合が多いのも特徴ですね」と述べている(開始後1分55秒あたり))。

 

 さて、あまりまとまってないし、自分の立場に引きつけて文章を書きすぎた感があるのだけれど、時間が圧倒的にオーバーしてるのでこのへんで終わる。なお、本記事はもともとテラケイ氏のnote公開後(2018年4月6日)に書き始めたものなのだが、2018年4月9日にテラケイ氏の記事に追記がなされた。VRアバターと「ロールプレイ」の差異について検討されており、興味深い(私も男性キャラなど使う気にならない側の人間だし、女の子のキャラメイクには5時間くらいかけるタイプの人間である。最近のFPSゲームでは自分でエンブレムやアバターを作成できたりするのだが、ゲームで銃を撃ってる時間よりエンブレムを作っている時間のほうが長かったりする)。上述したイラストレーションの話もこの観点からある程度までは語りうるような気もするが、よくわからない。ただ、実況という行為特有の性質に、この問題の重要な部分が含まれている、とは考えている。

 ちなみにこのポストが1年ぶりの更新だったりする。まぁメモ帳だしね?

 あとぼくはVtuberの中では鳩羽つぐちゃんがすきです。Kawaii

 


#0 鳩羽つぐです

 

鳩羽つぐ (@HatobaTsugu) | Twitter

*1:大学院では引用は正確に長く誠実に行え、と厳しく指導されたので……。

記事の引用につき、テラケイ氏から回答をいただいた。

https://twitter.com/terrakei07/status/984380707597271040

*2:合成音声ソフトを利用したゆっくり実況やボイスロイド実況、字幕のみの実況など、肉体を経由しない方法がないわけではない。ただ、そうした動画における実況はキャラクター同士の掛け合いなどをメインとするものが多く、ライブ性にはやや欠ける。

*3:なるほど確かに、VRアバターを利用する某実況者(名は伏せる)は深夜の生放送の中で、自分の声が気に入らないから生声配信を行わないのだ、と述べていたように記憶している。

*4:とはいえ、ねこます先生(敬意を表して「先生」と呼びたい)のように、むしろ現実の生々しさがブレイクに寄与したように思われるケースもある。

*5:こうした特性がいずれにとって都合の良いものであったか、それは文章上明示されていない。しかし、文脈および「インターネットに親しんだ人びとにとっては心地よいものだったことだろう」という文言から、配信者・視聴者の両方を指しているものと解する。ただし、本文で後述するが、それを快適と感じるのはローカルな範囲の人々にすぎない可能性はある。

*6:成人男性の有害性といった点にまで踏み込まず、本文のように解すれば、女性Vtuberや若い男の子のVtuberの存在を射程に収めた統一的な説明を与えることができるのではないかと思われる。とはいえ、私の見解が正しいのだとしても、それでも「男性(とくに中年男性)の持つ社会的情報の方がいっそういとわしいのだ」とする見方はありうる(ただし、そうした見方をとる実践的意味は何か、が問われることになるかもしれない)。聞くところによると、(本当かどうかは知らないが)女性の生声実況などは人気が出やすいそうだ。なお、もちろんこうした社会的な情報が逆に価値を持つ場合があり、たとえば声優等の有名人による動画がそうである。なお、こうした点につき、後述の本文も参照。

*7:どこの記事であったか失念してしまったが、海外のサブカルチャーと日本のサブカルチャーの相違について紹介する旨の記事において、主人公だったか彼女だったかが日本のマンガではとうてい許されないようなふるまいをするマンガが海外でヒットしている、というような話があった(超うろ覚え)。ヒロインにある種の潔癖さ、清らかさを求めないような文化を内面化した人は、おそらくここでいう「聖なるもの」の価値を美少女VRアバターに見出すことはないだろう。なお付言しておくと、ここでいう「文化」とは事実の問題であり、また、各人においてそのありよう(受容のされ方)が異なりうるものであることを当然の前提とする。つまり、日本人であっても、アニメやマンガにまったく触れない人であれば、ここにいう「聖なるもの」の価値を美少女アバターに感じない可能性が高い。

*8:もう当該ツイートがどこにあるのかわからないが、そうした旨のツイートをいくつか見た。

*9:それはこの記事において紹介されているのらきゃっと氏のツイートや、ねこます先生の発言にも示されているように思われる。というか、仕事でやっている場合は別として、自分の信じるKawaiiを描き出したい欲望がないのに女の子のイラストを描く人ってあんまり多くないように思う。なおそうした各人の「Kawaii」のあり様は、絵柄や描くキャラクターの性質それ自体によって示されるのであろう。

*10:なお、「内なる美少女」という考え方について疑問がなくもないのだが、ひとまずテラケイ氏の表現に従うこととする。この点については時間もないしあまり考えることも出来ていないので触れない。

*11:ソフト自体はいくらかお金を出せば手に入るし、そのソフトで使うことのできるVRアバターは既にたくさん用意されている。ただし、単なるVRアバターの利用というレベルを超えてVtuberであろうとする場合には話が異なる。結局Vtuberとしてそこそこにやっていくためにはそれなりの話術等のスキルが求められるであろうから、必ずしもすべての人にとって等しく利用コストが安いとは言えまい。比喩的に言えば、イラストであれば、画力の向上という点を重視しない人にとっては、紙とえんぴつと気合さえあれば絵が描けるといえなくもない。しかし、自分の理想とする「Kawaii」を上手に表現したいと思えば、途方もない時間と労力の投資が求められることになる。しばしばVtuberにはイラストレーション以上にコミュニカティヴなコンテンツの提供が期待されている点にも留意。こうした点を強調すれば、「利用コストが低いアプローチ」というよりは、単に「新たなアプローチ」と表現する方が適当かもしれない。

*12:もっとも、「精神の解放」とはそうした意味も含めての表現である、という理解もありうる。

*13:男性にとってカッコいいことは社会的に評価される要素でもあるし、バーチャルの世界で男性がカッコいいアバターを利用することはむしろ自然なことであるようにすら思われる。

*14:私が知らないだけで、世のVtuberのほとんどが実は男性アバターや動物アバターを使っている可能性はないわけではない。ただ、私の観測する範囲では、ほとんどのVtuberが可愛い女の子アバターを利用している。なお、本文に紹介したこのさきれむ氏は、ゲーム実況にテミーくんのアバターを使っている。

*15:あくまで憶測の域を出るものではないが、個人的見解としては、「女性キャラクター」という属性に付加価値があるのではないかと考えている。なお、念のため述べておくが、「女性キャラクター」に一定の価値があるという言明は「現実の女性」に価値があるという言明とは異なるし、「男性は女性よりも価値が低い」という言明とも異なる。「抽象化されたキャラクターとしての女性」に価値があるとする趣旨である。

【読書】親が子どもの遺伝子を操作することは本当に許されないことなのか?ーー桜井徹『リベラル優生主義と正義』(2)

 以下の記事で紹介した桜井先生のリベラル優生主義と正義に関する話の続き。

 

arbor-vitae28.hatenablog.com

 

桜井徹の見解

 桜井はリベラル優生主義に対してどう応答するのだろうか?桜井は、遺伝子改良を(1)肉体的改良、(2)知的改良、(3)道徳的改良の3つに分けたうえで*1、こう述べる。

  1. 肉体的改良については、免疫系の改良といった「健康に関連する改良」については「最も道徳的に正当化しやすい」(195頁)。しかし、健康に関連しない身長や体格等の改良は「子供のライフ・プランを狭める可能性が高いので、リベラルな立場からしても正当化が難しい」(195頁。この点については前回の記事も参照)。
  2. 知的改良については、「……重要な利益の見込みがある以上、リベラルな危害原理に立っているかぎりは、この遺伝的改良を正面から否定することはむずかしい」(198頁)。
  3. 道徳的改良について、桜井は暴力犯罪の抑止という「危害」を予防するための遺伝子介入の危険性を指摘する。

 3の道徳的改良の点にこそ桜井の見解の独自性があるように思われるので、ここを詳しく見てみよう。まず、桜井は、ブルンナーらの研究を参照しつつ、人間の攻撃性・暴力的行動と密接に関係する遺伝マーカーが確定される可能性を指摘する。そして、「こうした遺伝子的因子の存否が見極められることの影響は、本人や家族だけでなく、むしろ社会全体に及ぶ」ことに注意を促す(201頁)。つまり、自由主義社会において、アルコール中毒や犯罪といった社会問題が「遺伝子」の圧倒的な影響のもとに生じているとされた場合、その社会問題は治療可能な「医学的問題」に置き換えられることを意味するのである。このことは、問題を抱える個人の社会的・経済的状況から人々の目をそらし、(それが「個人」の遺伝子の問題であるがために)国家や社会制度の現状を合理化・正当化してしまう。のみならず、国家や社会が「社会秩序の防衛のために遺伝子を管理する必要があるという認識が生まれないともかぎらない」(201頁。強調引用者、以下同じ)。さらに進んで、「国家が積極的に将来世代の遺伝的資質を改良するべきだという方向」へと国家の役割が拡大する可能性もある(202頁。傍点は削除した)。

 こうした危惧に加えて、桜井はさらに次の点を指摘する。社会問題を生みだすような暴力的性向を生みだす遺伝的因子が特定された場合、「この遺伝的因子をコントロールする技術が現実化するや否や、この暴力性・攻撃性の遺伝的因子を〔生殖によって〕次世代に引き渡すことに対する『責任』が問われる可能性が生まれる」(203頁。〔〕内引用者、以下同じ)。その場合、「生まれ来る子供が、道徳的・法的非難に値する攻撃的・暴力的傾向をもって誕生することを予防する遺伝的介入によって、〔犯罪抑止という社会的利益を目的として、〕犯罪件数の減少を図ろうとする社会政策を想像することができる」(同頁)。これは、もはや子の福利のための遺伝子介入とは全くの別物である。

 そして、このような遺伝子介入を、リベラル優生主義論者のブキャナンらは道徳的に否定しない。桜井はこう述べる。

「生まれ来る子孫それぞれの『善』の追求を容易にするための遺伝子改良を推進するリベラル優生主義が、例えば『犯罪予防・抑止』という集合的目標のための遺伝子改良を肯定するに至るまで、ほんの一歩しかない」(205頁)。

 また、攻撃性を抑えるようなタイプの道徳的改良は、現行の社会に人々を同化させることを助け、統治者にとって都合の良いものとなろう。さらに、この種の道徳的改良は人々の自由な「政治的理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない」(206頁)。

 そして、桜井はこの議論を次の通り総括する。

「リベラル優生主義は、個人的イニシアティヴに基づく遺伝的介入を『生殖の自由』の延長というかたちで正当化しようと試みたとき、リベラルな危害原理を究極的な根拠とせざるをえなかった。つまり、子孫のための遺伝子改良は、彼ら各々の『善』の追求を容易にするし、第三者にも社会にも何の害も危険も与えない、という正当化根拠に最終的に訴えたのである。しかしこのことが同時に、将来における遺伝的介入技術の展望が、暴力犯罪という『危害』の発生を抑止する可能性を示したとき、その技術の利用を拒むことを原理的に極めてむずかしくしたのである。これも、ある種の論理的なアイロニーだと言える」(208-209頁)。

 

桜井の議論への疑問

 (追記2017年4月19日:下記のコメントには問題があるので近いうちに修正します)

 

 なるほど桜井の議論はわかりやすく説得力があるように見えるが、疑問がなくもない。

 先に紹介したとおり、桜井は、206頁以下で、道徳的改良が人々の自由な「政治的理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない」と述べていた。かなり長くなるが、この点をもう少し詳細に引用してみよう。

 〔A〕「イエスやガンジーキング牧師の例が示すように、攻撃性は、現状の権力構造や不正義に対する正当な批判精神や反逆心と結びついている場合もあり、そのような攻撃性の現れは道徳的に中立的か、むしろ望ましい政治的実践にもなりうると考えられる。このような批判的精神に支えられた攻撃性・反抗心は、社会構造に関するより優れた構想の『芽』にもなりうるものだからである。このように社会改革の芽にもなりうる攻撃性を、『社会的目的』という名のもとで事前に詰んでしまうことは、――ちょうど〔ハクスリーのディストピア小説〕『すばらしき新世界』における〔幸福感と楽しい幻覚を与える薬剤である〕ソーマと同じように――人々の社会的同化を巧妙に進めるだけでなく、生まれ来る個々人の政治的な理念・価値の追求・選択に大きな制約を与えることになりかねない。つまり、社会的目的の遺伝的介入による攻撃性・暴力性の除去が、『批判的精神をもって一定の政治的な信念を選択し追求する自由』をあらかじめ排除する方向にはたらく可能性があるのではないか、ということである

 〔B〕このように、道徳的改良をとりわけ『犯罪の抑止』などという社会的目的のために推し進めることが、人間の包括的な価値観・信念を構造的に狭める恐れがあるとすれば、それは『開かれた未来への権利』を子供たちに保障しようとするリベラル優生主義の観点からも是認すべきでないと思われる。なぜなら、われわれの政治的な理念や実践の形成そのものに大きな影響を与えうる道徳的改良は、公共生活における諸制度やその運営に対してわれわれが主体的に修正や異議を申し立て、文字通りの自律を達成することを妨害する可能性を持つからである。生活共同体において政治的に自律をなしとげられないおそれのある環境で、そもそも『開かれた未来』が保障されていると言えるのか、きわめて疑わしい。この場合、社会的目的の遺伝子介入を、無数の個人的目的の遺伝子介入へと安易に還元することももちろんできない。政治的・社会的体制の維持に利益を有する者にとって、社会的目的の道徳的改良がもつ意味は、個人的な肉体的・知的改良がもつ意味とはまったく異なるのである」(206-207頁。原文の出典表記は省略した) 

  ここで重要なのは、〔A〕の箇所である。この箇所において、桜井は、「社会的目的の遺伝的介入による攻撃性・暴力性の除去が、『批判的精神をもって一定の政治的な信念を選択し追求する自由』をあらかじめ排除する方向にはたらく可能性があるのではないか」と述べている。〔B〕の箇所は、後述する桜井自身の立場からの批判的応答である。

 しかし、これは危害原理を採用する従来のリベラル優生主義の立場からも十分に応答可能な問題なのではないだろうか。リベラル優生主義においては、「遺伝子介入はあくまでも、生まれ来る子供が自由にライフ・プランを選択できる範囲を狭めないかぎりにおいて許される」(187頁)にすぎない。ところで、攻撃性や暴力性は、たとえばスポーツや学術研究等にとって重要である。野球やサッカーといったスポーツには攻撃性が大きく関わってくる(攻守の概念がないスポーツは別だが)。とくに、格闘技のように、攻撃性や暴力性の発現それ自体がスポーツになっている場合もある。学術研究や政策論争等においても、攻撃性は議論の応酬に寄与し、発展的な議論を生みだすのに欠かせないように思われる。こうした見方が認められるとすれば、攻撃性や暴力性を抑制するような遺伝子介入は、子供のライフ・プランの自由な選択を脅かすおそれがあるといえよう(たとえば、攻撃性や暴力性が抑制された子供は、プロボクサーとしてやっていけるのだろうか?)。

 そうであるとすると、リベラル優生主義の立場からしても桜井の問題意識に応答できるのだから、桜井が次の通り述べたうえで行った上述の〔B〕の議論は、「道徳的改良の問題におけるリベラル優生主義の限界の指摘」としては成功していないように思われる*2

「リベラルな社会観が多様な発展を保障すべきなのは、個々人の『ライフ・プラン』だけではなく、より包括的な『価値観』ともいうべきものだと主張したい。言い換えれば、リベラルな社会に生まれ来る子供にとっては、個人的なライフ・スタイルや職業に関して幅広い選択肢が開かれているだけでは不十分であって、公共生活の枠組みや社会的制度の修正・改善にも自らの価値観に基づいて自由に参加できる余地が与えられる必要がある」(190頁)。

  桜井の議論に対してこうした反論が可能になってしまう理由は、リベラル優生主義のいう「ライフ・プランの選択」という概念と、それが狭められているか否かの判断基準があいまいな点にあるのかもしれない。

 

その他:同性愛とか自閉症とかメカ少女とか殺人ロボット・アーム

 (ブキャナンらの著作を読んでいないことを先に断っておくが)ブキャナンらのように機会の平等といった観点から遺伝子介入を正当化するならば、たとえば我が子がLGBTQ(同性愛者等)であるとか自閉症自閉症スペクトラム)であるといったことが判明した場合に、それを「修正」する遺伝子介入を行うことは正当化されるのだろうか(誰だったか忘れたが、自閉症児は中絶するのが倫理的要請であると説いていた哲学者がいたと思う。その哲学者は自閉症児の親でもある)?同性愛者等の性的マイノリティは、「ノーマル」な人たちと比べると、事実の問題として、様々な点で機会の不平等を被っている。仮に遺伝子介入技術によって同性愛等が「治療」できるようになったとき、機会の平等を回復するために我が子を「治療」して「ノーマル」にすることは、親の「生殖の自由」に基づいて正当化できるのだろうか*3自閉症の場合はどうだろうか?小児性愛の場合はどうだろうか?問題は無限に広がっていくようにも思われる(この議論は、憲法学においてしばしば語られる「実質的な機会の平等」という謎概念を思い出させる。「実質的な機会の平等」はその具体的内容があいまいで外延が不明確なのだが、個別の不平等事例を解決する魔法の杖として使われているように感ぜられる)。

 なお、私が個人的に気になっているのは、自分の腕をサイバーパンクめいた殺人ロボット・アームに取り替えたり、首元にLAN直結端子をインプラントしたり、なんかよくわからないスゴいものを発生させるジェネレーターをはめ込んだりといった生体機械化(サイバネ化)の可能性である。サイバネ化と遺伝子介入とはどう違うのだろうか?異なる道徳的評価が与えられるべきであるとすれば、それはなぜだろうか?メカ少女好きとしては一度調べておきたい問題である。

 

メカ少女とは (メカショウジョとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

*1:この分類はウォルターズ&パーマーの分類に基づいたものである。

*2:念のため述べておくが、本書は、「リベラル優生主義は間違っている」といった主張をするものではない。

*3:関連して、ヴァネッサ・ベアードは同性愛の原因に関する科学的探求の文脈について論じる中で、次の通り述べている。「ゲイの権利に反対する人々は彼らの政治課題を追求しているのであり、その大義を支えるために医学を利用できなければ、他の何かを使うだけだろう。〔原文改行〕たとえば、ホモフォビア〔=同性愛嫌悪〕が存在し、性的マイノリティたちのために十分な市民権が存在しない社会では、『ゲイ遺伝子』を見つけることは、相当な危険も伴う可能性がある。『ゲイ遺伝子』は、ゲイたちを『治す』ための遺伝子治療につながるかもしれない。出生前の検査により子宮の中の遺伝子を検出し、ゲイの胎児を中絶させるかもしれない。あるいは、ゲイの赤ん坊たちをヘテロセクシュアルに変える出生前の治療につながるかもしれない」(ヴァネッサ・ベアード〔町口哲夫訳〕『性的マイノリティの基礎知識』〔作品社、2005年〕128-129頁)

【読書】親が子どもの遺伝子を操作することは本当に許されないことなのか?ーー桜井徹『リベラル優生主義と正義』(1)

「優生主義(優生学)」の復権

 知的障害者施設において多くの障害者が元職員の男に殺害された津久井やまゆり園事件(相模原障害者施設連続殺傷事件)からもう半年以上経つ*1。この津久井やまゆり園事件は、戦後最大の大量殺人事件としてニュースになったが、元職員の男の言動から、優生主義の絡む問題として受け止める向きもあった。

 優生主義(優生思想、優生学)とは、遺伝学的に人類をより優れたものにしようとする考え方のことだ。この考え方に基づき、20世紀のナチス・ドイツやアメリカが障害者等に対する強制的断種を実施したことはよく知られている。

 優生主義は負のレッテルの代表格である。優生主義に基づく政策や行動は「疑いなき悪」であり、いかなる理由があっても許されない行為であると考えられている*2。だが、本当にそうだろうか?たとえば、「遺伝性の難病を抱えて生まれてくる我が子を病気から守るために、バイオテクノロジーを利用して子供の遺伝子に介入する」ようなケースにおいても、その遺伝子介入は許されない行為なのだろうか?また、親が子供により高い能力を与えるために遺伝子に介入することは許されないのだろうか?

 本書『リベラル優生主義と正義』が検討・批判対象とする「リベラル優生主義」の提唱者たちは、親の「生殖の自由」を根拠にこうした遺伝子介入を正当化する。

 

リベラル優生主義と正義

リベラル優生主義と正義

 

 

リベラル優生主義とは何か?

 リベラル優生主義とは、 「親が自らの子供の福利のために、バイオテクノロジーを利用して子供の遺伝的特徴を改善することを、『生殖の自由』の延長線上に位置づけて擁護する立場」を指す(3頁。強調引用者、以下同じ)。

 さて、リベラル優生主義の中心的主張は、次の3つの要素に分けられる(11頁。やや長くなるので、流し読みしてもらってもいいと思う)。

  1. 【親の自発的選択による遺伝的改良の承認】「バイオテクノロジーによって子孫に付与される遺伝的特徴を決めるのは、国家や社会ではなく、その親という『個人』である」(11-12頁)。この点で、リベラル優生主義は、20世紀のナチスやアメリカのように国家が「望ましい/望ましくない遺伝的特徴」を決めつける「権力主義的優生主義」とは全く異なる。「親がその子供のためになす遺伝的改良は、……『生殖の自由』の延長線上に位置づけられる」のである(12頁)*3
  2. 【遺伝子介入による「治療」と「改良」との区別に道徳的な重要性を認めない】遺伝子テクノロジーの進歩に政治的規制をかけるべきだ、と主張する論者の中には、「健康の回復を目的とする『治療』であれば遺伝子介入も許されるが、もともと正常な状態を『改良』するための遺伝子介入技術の研究は制限すべきだ」との立場をとる者がいる(16頁)*4。だが、リベラル優生主義の論者たちは、治療と改良の厳密な区別が不可能であることを強調する。たとえば、遺伝子介入による更年期障害の「治療」は、それが加齢に伴って普通に現れる現象であるために、身体機能の「改良」という面も持つ、といった具合である。

  3. 【人間の改善につき、環境の改変によるものと遺伝子の改変によるものとの間に道徳的な違いを認めない】面白いことに、リベラル優生主義は「遺伝子の在り方が人間形成に決定的な影響力を及ぼす」という考え方を受け入れない。遺伝子だけではなく、環境の在り方も人間の発達に影響を及ぼすことを積極的に認めているのだ。これは、かつては断種まで行った優生主義という考え方に反するように思えるかもしれない。しかし、実はこれこそがリベラル優生主義の巧妙なところだ。つまり、遺伝子だけが特別な重要性を持つわけではなく、「遺伝子と環境とが人間の諸特徴の形成に同等の重要性を持つとしたら、遺伝子の改変によって能力の改善を図ろうとも、環境――食事、教育、訓練、しつけ等――の改変によって能力の改善を図ろうとも、これら二つの方法は同等の道徳的評価を受けるべきだ」と考えるのである(18頁)。我が子を立派な学校に入れて子供の知的能力を発展させる自由は当然のように親に認められているのに、(必ずしも決定的な影響を与えるとは限らないにもかかわらず)知能を高めるための遺伝的介入が認められるべきではないというのはおかしくないだろうか?*5

 

危害原理に基づくリベラル優生主義の自己規制

 リベラル優生主義に対してはもちろん反論もある(別に記事を書く予定)が、リベラル優生主義陣営からの再反論もあり、簡単には決着がつきそうにない。このことは、現在の優生主義は、そう簡単には退けられないほど理論的に洗練されたものになっているということの証明なのかもしれない。

 さて、それほどまでに洗練されたリベラル優生主義に対し、桜井はどう考えるのだろうか?

 桜井の見解を見る前に抑えておくべき重要な点は、リベラル優生主義が「危害原理」を前提にしているということだ。危害原理とは、「他人が相手の自由に干渉できるのは、その相手が他人に危害を与える可能性があることを原則とする」考え方である*6。雑な言い方だが、他人に迷惑をかけない行為は放っておくべきである、というとわかりやすいかもしれない。

 この危害原理は、社会に何の害も与えないような遺伝子介入を強力に正当化するが、子供に害を与えるような遺伝子介入等を拒絶する。よって、「遺伝子介入はあくまでも、生まれ来る子供が自由にライフ・プランを選択できる範囲を狭めないかぎりにおいて許されることになる」(187頁)。ウエイトリフティングの選手に有利なガッチリした体型を与える遺伝子介入は、子供がバスケットボール選手になるのに不利に働くだろう。こうした遺伝子介入は認められないというわけだ。

 

 このあと、リベラル優生主義に対する桜井の見解が述べられるのだが、長くなったので別に記事を用意しようと思う。気になる方はそちらを御覧ください。

 

追記(2017年4月11日)

続きです。桜井先生の見解と個人的なコメントを書きました。

 

arbor-vitae28.hatenablog.com

 

*1:津久井やまゆり園事件については、さしあたり以下を参照。

相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia

「津久井やまゆり園」事件、雑感: 極東ブログ

*2:桜井は、「明確な意味を欠く非難の表現として利用されているという点で、『優生学』『優生主義』という後は、しばしば着床前遺伝子診断に対して投げかけられる『生命の選別』という表現と共通するところがあるようにみえる」と述べている(5頁)。

*3:なお、桜井によれば、リベラル優生主義の提唱者であるブキャナンらにとって、「優生主義の中心を占める倫理的問題は個人的選択というよりも、むしろ社会正義なのである」(13-14頁)。遺伝子介入も「個人」の選択に任せられているからオッケー、という単純な話ではないのだ。「ブキャナンらにおいては、『個人』の多元的な選択が尊重されるというのは、正義実現のための手段的な価値にすぎないのであって、その半面、国家の関与こそが優生主義的プログラムに内在する悪の根源だというわけでもない」(14頁)。子供への遺伝的介入が「生殖の自由」である限り、公共の利益との関係で、その自由は一定の制約に服する場合がある。なお、この問題は、もし遺伝子介入によって難病の出現等が防げるのであれば、医療サービス等の社会的な資源の配分に関わりが出てくるため、公共性を帯びた問題でもある。

*4:以下はメモである。フクヤマの著作を読んでいないのでなんとも言えないのだが、フクヤマの議論はよくある怪しい論法の一種であるように思える。孫引きであるが、フクヤマは次のように論じているそうだ。

「〔フクヤマは、〕『人間の尊厳』の基礎となる人間本性(human nature)というものを、客観的に測定することができると信じている。のちにも触れるように、彼は人間本性を、『道徳的選択、理性、そして幅広い感情といった人間独自の諸特徴の間の複雑な相互作用』に存するとし、この人間本性の統一性と持続性に変更を加えかねない遺伝子テクノロジーの進歩に歯止めをかけるべきだと考えるのである。この人間本性と同じように、健康も、決してフーコーが言うような社会的構築物ではなく、『生命体全体にとっての自然な機能』として客観的に決定できるのであって、これに応じて治療と改良も区別できると、フクヤマは言う」(17頁。原文にあった出典表示は略した)

 前半部は「人間本性」という曖昧な概念に一見それらしい定義を与えつつ、遺伝子テクノロジーはその定義に照らしてマイナスの効果を与えるからダメだ、と論じているように読める。多くの読者は、最初の概念の定義について深く考えないので、なんとなく納得してしまう。だが、代わりに「人間本性とは、さらなる知的進歩を実現しようとする精神作用である」といった定義を与えれば、むしろ遺伝子テクノロジーはその進歩を大幅に進める素晴らしい技術だということになる。こうした論法につき、さしあたり青木理音『IT社会の経済学』(インプレスジャパン、2011年)257頁参照。

*5:環境の改善に努める親は子供の「潜在能力」を引き出そうとしているだけであって、子供をもっと根本的に改変してしまう遺伝的介入とは区別されるべきだ、という考え方がありうる。しかし、こうした考え方こそ、「皮肉なことに、これはある意味で、遺伝子決定論に基づく誤解に根ざしている。親による環境的要素の操作によって引き出される潜在能力が、子供の中にあらかじめ用意されているわけではない。このような環境の操作は実際に、子供の体型、身体的能力、認知的・情緒的能力といった重要な表現型〔=生物の示す形態的、生理的な性質のこと〕に大きな改変を与えているのである。〔原文改行〕他方、すべての遺伝子型〔=生物がもっている遺伝子の基本構成。遺伝子の情報に基づいて発言された形質が表現型である〕の操作が、その個人の『本質』を改変するわけでは決してない。例えば、私の免疫システムのはたらきが遺伝子介入によって包括的に改良されたとしても、私はその遺伝子介入によって、自らの自己同一性そのものが変更を余儀なくされたとは考えないはずだ。むしろ、私が乳児期にワクチン注射を受けた場合と同じように、私はその遺伝子介入を『私という同一の人格に付加された身体的変化』と受けとるのではないだろうか。私の遺伝子型の要素すべてが、私の『自我』の中核を構成するわけではない。以上のように考えれば、遺伝子型への介入はその個人の本質的特徴を改変するのに対して、環境への介入は偶有的特徴を改変するだけだとは、簡単には言えないのである」(19頁。出典の表示は省略した。〔〕内は引用者の手による)。

*6:危害原理とは - はてなキーワード