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留年院生。絵描いてます。LGBT調べてます。憲法やってました(過去形)。ここはメモ帳です。

【読書】トップクラスになるための練習法ーーアンダース・エリクソンほか『超一流になるのは才能か努力か?』

読書 絵の練習

 1999年公開の映画『マトリックス』の主人公ネオ(キアヌ・リーブスが演じていた)は、コンピュータの支配する仮想世界マトリックスの中で自分自身にカンフーの技術を「インストール」して戦っていた*1。ボタン一つでカンフー・スキル習得というライトノベル級のお手軽仕様である。幸か不幸か、現世はマトリックスではないので、ワンタッチでチートキャラになれる科学技術は存在しない。我々がカンフー・マスターになるには地道に練習するしかないのだ。

 だが、カンフー・マスターにはなりたいが、そのための練習はしたくないと考えるのが人間である。そうなると、効果的な練習、つまりできるだけコストのかからない練習は何か?という点に目が行くことになる。

 というわけで手に取ったのが本書である(本書の著者、アンダース・エリクソンは心理学者)。

 

超一流になるのは才能か努力か?

超一流になるのは才能か努力か?

 

(この手の本にはビミョーな邦題がつけられることが多いが、本書もその例に漏れない)。

 

 さっそく夢を打ち砕く話をすると、「てっとり速く上達する方法はない」(kinde版No.3985)。嫌な話を聞いた。とはいえ、有効な練習と有効でない練習というものはもちろんある。エリクソンいわく、「さまざまな練習法の中で最も効果が高いのは限界的練習である」(同)。では限界的練習(deliberate practice)とは何か?

 限界的練習は、「学習者を『そこそこ上手』ではなく、それぞれの分野で世界トップクラスにするという明確な意図を持って開発された方法論」である(No.304)。大雑把にいって、限界的練習には次のような特徴がある*2

  1. 【教師がいる】練習カリキュラムを組み立てる優れた教師がいる。
  2. 【練習課題は少し難しい】常にコンフォート・ゾーン(=楽にできること)の少し外側、つまり現在の能力をわずかに上回る課題に挑戦しつづけることを求める。限界に近い努力が求められるので、一般的に楽しくはない。
  3. 【具体的目標がある】限界的練習には明確に定義された具体的目標がある。
  4. 【集中力が必要】学習者には、全神経を集中し、意識的に取り組むことが求められる。
  5. 【フィードバックを参考にできる】フィードバックと、それに対応した取組み方への修正が必要である。
  6. 【心的イメージとの相互影響】限界的練習は有効な心的イメージ*3*4(「脳が今考えているモノ、概念、一連の情報など具体的あるいは抽象的な対象に対応する心的構造のこと」(No. 1353)。我々が何も考えずペンを持てるのも、いま文章を左から右へ、そして下側へ読んでいるのも、すべて心的イメージの産物である)を生み出すとともに、それに影響を受ける。
  7. 【地道な改善】すでに習得した技能の特定の側面に集中し、それを向上させることでさらなる改善や修正を加えていくことが多い。時間をかけて一歩ずつ改善していくことになる。

 では、なぜこうした特徴を持つ練習(=限界的練習)は強力なのか?ここが面白いのだが、エリクソンは、限界的練習が「ホメオスタシス」という人間の能力に噛み合っているからだとする。ホメオスタシスとは、一定の環境の変化を受けた人間の身体が、生理状態などを一定範囲内に調整し、恒常性を保とうとする働きのことだ。そして、限界的練習によって激しい負荷がかかった身体は、その状況に適応するために変化していく。

 

身体システム(特定の筋肉、心臓血管システムなど)にホメオスタシスを維持できないほどの負荷がかかると、身体はそれに反応してホメオスタシスを新たに確立することを目的とする変化を生み出す。たとえばあなたが有酸素運動のプログラムを始めるとしよう。心拍数を最大心拍数の70%という推奨されている水準(若者の場合毎分140回を少し上回る程度)に維持しながら週3回、30分ずつジョギングをするのだ。このような運動を続けていると身体に起きる変化の一つが、足の筋肉に酸素を供給する毛細血管の中の酸素レベルの低下である。身体はそれに反応して、足の筋細胞への酸素供給を増やすために新たな毛細血管を増やし、再び細胞をコンフォート・ゾーン〔=楽な状態〕に戻そうとする(No.993。強調および〔〕は引用者)。

 

 つまり、激しい訓練がホメオスタシスにあらがった結果、その負荷に適応するために肉体や脳それ自体が「作り変えられる」というわけだ*5*6

  さて、この限界的練習であるが、どうみても難しすぎる。普通の人にはまず無理だ*7。まず大抵の場合、我々が学びたいと思う分野の先生につくこと自体が難しい*8。そもそもどの先生が一流なのかもわからないのに、一流の人間を見つけて教えを請えといわれても困る。無理ゲーとしか言いようがないのではないか?

 この点につき、エリクソンは、「あなたの専門分野が厳密な意味での限界的練習にそぐわないものであっても、できるだけ効果的な練習方法を考える指針として限界的練習の原則を使うことは可能だ」(No. 2068)と述べている。たとえば、教師役がいないとしても、エキスパートが本やインタビューで語っているアドバイスを参考にすることはできる。シナリオライターのように、ある人物がエキスパートであるか否かを客観的に判断することが難しい場合には、同業者(他のシナリオライター)からの評価を調べるという手もなくはない。その分野に造詣の深い人に尋ねるという手もある。もしエキスパートを見つけることに成功したならば、(簡単なことではないが)「次のステップは彼らのパフォーマンスは具体的にどこがその他大勢と違うのか、彼らがその域に達するのに役立った訓練方法がどのようなものかを突き止めること」である(No. 2181)。何がエキスパートをエキスパート足らしめているのか、それを考える必要がある。

 いや結局難しすぎるだろうという気はするが、まぁできなくはないかもしれない。いまはインターネットの時代。自分の制作物の制作プロセスを公開しているクリエイターは多い。TwitterなどのSNSを通じて練習方法などを尋ねてみるのもよいだろう。まーなんですか、「先生の作品に感動しました!僕も先生のようになりたいです!先生はどんな練習をしてきたんですか!?」とか聞いてみれば教えてくれるんじゃないですか。ブロックされるかもしれないけど。

*1:と思うんだけどなにぶん見たのが随分と昔なので違うかもしれない。

*2:詳細はNo.2017以下参照。なお、エリクソンは、自身の研究結果を通して、「分野を問わず、技能を向上するための最も有効な方法は例外なく、同じ一般原則を満たしている」と書いている(Kindle版No. 273)。

*3:心的イメージという概念は、学問であれ芸術であれ、何かしらのスキルの訓練を続けた人間には理解しやすいのではないかと思う。たとえば法律学をずっと学んできた人は、法的問題に出会ったとき、適切な条文と適切な解釈を即座に呼び出せるようになる。なぜそのようなことができるのかと問われても、説得的な説明はできない(できるからできるとしかいえない)。あれ、そう、あれです。

*4:なお、エリクソンは、「限界的練習の大部分はその活動に役立つ有効な心的イメージを作り上げていくためのものだ」と述べている(No. 1353)。

*5:なお、こうした訓練が脳に及ぼす影響は若い頃の方が大きい点、認知的・身体的変化はメンテナンスしなければ消失してしまう点、長期間にわたる訓点によって脳の一部を強化すると何らかの別の能力が低下する場合があるという点もなかなか興味深い(この点につき、No. 1111以下参照)。

*6:エリクソンはここで多くの研究を引用しているが、紹介すると煩雑になるので、気になる方は書籍の方を読んでほしい。なお、私はそれらの論文までは参照していない(論文を引用して自説を権威づけるケースでたまに見られるが、根拠となっている論文自体が薄っぺらく説得力に乏しかったり、あるいは論文の主張の射程を超えた見解を引き出していたりするケースがある)。もちろん本書がそういう引用をしていると言っているわけではない。

*7:本書は「普通の人」ももちろん念頭において書かれているし、うまくいった人たちの話もされてはいるのだが。

*8:たいていの人には、個人指導をしてくれる(=学習者に合ったカリキュラムを組み、適切なフィードバックをくれる)先生に教えてもらうための時間もお金も意欲もない。そして、そういう先生が近場で教えているとは限らない。

【絵画】絵の練習に関するメモ(1)絵の初心者が「模写」を練習方法に選ぶことの意味は?

イラスト メモ 絵の練習

 模写は、絵を描き始めた人が最初に手を出す練習法の1つでしょう。以下は、最初期の段階で模写という練習方法を選択するメリットに関する(思いつきの雑駁な)メモです。

 

(1)模写はフィードバックを得やすい

 『究極の鍛錬』の著者、ジョフ・コルヴァンは、「結果に関し役に立つフィードバックのない訓練は価値がない」kindle版 No. 2673)と述べています。絵の練習について考えてみると、1人でオリジナル絵を描く行為は、そうしたフィードバックを得るのが非常に難しい行為であるといえます。なぜなら、多くの場合、デッサンの崩れなどのミスを指摘してくれる先生がいないからです。他方、模写では、お手本をもとに絵を描くわけですから、「どれだけうまくお手本を描き写せたか」を練習後に評価することができます。いってみれば、問題を解いた直後に採点をすることができるわけです。どこが上手く描けなかったか、次に描くときはどうしたらいいのか、模写ならばそういったフィードバックを簡単に得られるのです。

 また、模写では、フィードバックを即時に得ることもできます。私たちが模写をするとき、「間違った線」を引いたと思ったら、すぐに消しゴムで線を消して、新しい線を描きます。これは、フィードバックを獲得してすぐに修正を行う作業を繰り返しているともいえます(フィードバック・ループ)。

 

(2)模写は達成感・上達感を得やすく、モチベーションを維持しやすい

 困ったことに、最初期の絵の練習はあんまり面白くありません(それなりに描いたあとになっても面白いものじゃないですが)。この点につき、『たいていのことは20時間で習得できる』の著者、ジョシュ・カウフマンは、次のとおり述べています。

 スキルを身につけるには時間と努力が必要だが、たいていの人は時間がないし、努力もしたくない。だから「時間ができたら、いつかやってみよう」となる。

 正直言って、テレビを見たり、ネットサーフィンをするほうがずっと楽だ。ほとんどの人がそうするので、やりたいことは夢のままで終わる。

 もう一つ、不愉快な真実がある。たいていのことは上手になるまでおもしろくない。どんなスキルにも、私が “イライラの壁”と呼ぶものがある。まだスキルがおそろしく低く、それが自分でも痛いほどよくわかっている時期だ。しばらくは思うようにいかないことがわかっているのに、何かを始めたいと思うだろうか。(同書kindle版No. 9。強調引用者)

  

 私たちは、成果の上がらない初期の練習で挫折しがちです。しかし、模写では、自分の好きな絵を「見て写す」わけですから、たとえ初心者でも、自分が描きたいと思えるような素敵な絵を簡単に描くことができます。また、これは経験論ですが、模写はすぐに上手くなれます(私の場合、描き始めて10枚目あたりから割と上手に模写できるようになりました)。このことは、やる気を維持するのに非常に効果があるのではないでしょうか。

 

(3)ゲシュタルトの会得に最適である

  練習初期においては、「〇〇をどういう風に描いたらよいのかわからない」という状況にしばしば陥ります。「腕ってどう描くの?」「目ってどんな形なの?」「髪ってどう描けばいいの?」といった具合に。この点、模写という練習方法においては、この「どう描けばいいのか」問題で行き詰まることが少ないです。だって、お手本があるのですから。お手本の通りに描けばいいのです。特定の絵描きさんの絵を何枚も模写していると、その人の「目の描き方」「服の描き方」「髪の描き方」といった要素、いわばゲシュタルト(形態、形状)がなんとなくわかるようになってきます。模写の練習は、こうしたゲシュタルトを獲得するのに非常に役に立つと思います(私も自分の絵を見て、目の描き方はあの人とあの人からもらった、フリルの描き方はあの人の描き方を真似てるな、といったことをよく考えています)。

 

(4)やるべき作業が比較的明確である

  やるべき作業が山のようにあると、どれから手をつけたらいいのかわからなくなってしまうものです。オリジナルの絵を1枚描くためには、構図を考えたり、資料を集めたり、キャラクターの造形を考えたり、アタリをとったりする必要があります。これは心理的負担が大きいうえ、各作業が独立しているため、アタリをとったり構図を考えた時点で投げ出したりしがちです。

 その点、模写ならば、やることは1つだけです。つまり、「目の前にある絵を忠実に描き写す」ということだけ。そして一度描き始めると、顔から胸、そこから肩、腕、といった具合に、次に描くべきポイントが自然にわかるようになっており、完成段階、つまり達成感を得られる段階に到達しやすいのではないかと思います*1

 

(5)必要な道具(教材)が少なくて済む

  まあ単純に、解剖学書とか資料集を買わなくても済むということです。

 

おわりに

 模写の効用について、メタ認知的な観点から色々と考えてみました*2。私自身はこういった利点があると認識して模写をしていますが、もしかしたら他の意見もあるかもしれませんし、私自身の考えが変化するかもしれませんが、まずは、現時点でのメモとして文章化してみました。

*1:また、「片目だけ瞑っている目」とか「背中に手を隠す」という初心者あるあるを回避できるという点、完成していないと「腕だけ無い模写」みたいな奇妙なものになってしまう(だからきちんと完成させたくなる)点も重要でしょう。

*2:コルヴァン・前掲書No. 2642は、訓練におけるメタ認知の重要性を論じています。

【メモ】ジト目の研究――ジト目とは何か、半目との違い、シュレーディンガーのジト目

イラスト メモ ジト目

 ジト目という目つきがあります。こういう目です。

 

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上:武月睦『やおろちの巫女さん 第1巻』(講談社、2016年)135頁。下:同111頁。

 

 ユキちゃん本当ため息が出るくらい可愛いですね。ほぼ全ページに渡ってジト目のユキちゃんを崇められる『やおろちの巫女さん』、皆さんも読みましょう。

 

やおろちの巫女さん(1) (ヤンマガKCスペシャル)

やおろちの巫女さん(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

 

 このままユキちゃんがいかにキュートでアメイジングでファンタスティックであるかを語ってもいいのですが、本稿の趣旨から逸れるのでやめましょう。

 この記事は、筆者が「ジト目ってなんかよくわからんぞ???」と思ったのでそれについてちょっと調べたメモです。「可愛けりゃこまけぇこたぁいいんだよ」という意見もひとつの真理ですが、理論なくして最高のジト目なしでございますぞ。ジト目をさらに深く味わうためにはジト目について学ぶ必要がありましょう。ジト目に敬意を払うとはそういうことではないでしょうか*1

 

1.「ジト目」の定義

 米国の探偵調査会社会長テリー・レンツナーは、何かわかんないことがあったらまずググれと言いました(言ってないかもしれない)。まずは「ジト目」でググるのです。

 「ジト目」の検索結果は約598,000件。まずはトップに来たピクシブ百科事典の定義を確認しましょう。

 

「軽蔑・不審・呆れなどの負の感情を持った時の表情。またはそのときの目の形」

 

 なるほど。ここでジト目とは「負の感情を持ったときの表情」だとされています*2。しかし、ユキちゃんの2枚目の画像からもわかるように、笑顔のジト目、つまり負の感情を持たないジト目もありうるのではないでしょうか?少し考えてみましょう。

 

2.負の感情を持たないジト目ってありうるの?

 この点につき、ピクシブ百科事典は「ジト目の定義について」という項目で次の通り述べています。

 

この記事ではジト目を「負の感情を持っている」事が前提として記述しているが、時としてその認識の食い違いによって口論が起きる事もある。
「半目=ジト目」程度の認識で使っている人もいれば、「負の感情がなければいけない」と考えている人もいる。
pixivでは、イラストを描いた作者がジト目だと言っていれば、(ジト目のタグを付けたならば)そのイラストのキャラはジト目だ、という風に思っておけばとりあえず口論は起きないだろう。

 

 最後の「イラストを描いた作者がジト目だと言っていれば、……そのイラストのキャラはジト目だ、という風に思っておけばとりあえず口論は起きない」という対症療法的なコメントがオタクの面倒くささを象徴していますね。それはさておき、この定義を前提とすれば、「ジト目」について、大きく分けて次の2つの立場があるといえそうです。

 

  1. 「半目(=目を半分開いた、あるいはそう見える状態)である」ことに加え、「負の感情を持っている」ことを求める立場(負の感情必要説)
  2. 「半目であ」りさえすればよいとする立場(負の感情不要説)

 

 先のユキちゃんの「だーーめっ」は負の感情不要説からいえばジト目だといえるでしょう。しかし、負の感情必要説からいえばジト目ではないということになるでしょう。笑顔なんですから。

 この見解の分裂は単なる定義の決め方の問題にすぎないのかもしれません。また、そもそも定義など存在しないところに定義に関する2つの説を無理やり立てただけといえなくもありません。であるならば、いずれの説が正しいか論ずるのは表面的には意味がないことでしょう。「イラストを描いた作者がジト目だと言っていれば、……そのイラストのキャラはジト目」なのだということにしておけばみんなハッピーなのです*3問題棚上げともいいますが

 

3.おまけ:シュレーディンガーのジト目――「ジト目」であるか否かは見ただけではわからない!

 簡単な調査としては(飽きたので)ここで終わりにしますが、ちょっとややこしい話を思いついたのでメモしておきます(まとまってないですが)。

 先ほど、負の感情必要説と負の感情不要説とがあるといいました。ここで面白いのは、負の感情必要説においては、ある半目が「ジト目」であるか否かを判断するためには、その半目が登場するコンテクスト(文脈・状況)に関する知識が不可欠であるということです。つまり、そのキャラクターが「どんな気持ちで半目になっているのか」を知らねばならないということです。

 ところで、1枚目のユキちゃんの画像は、実は次のような状況の中で現れた半目でした。

 

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 この目は負の感情必要説からしても不要説からしても「ジト目」だといってよいものでしょう。自分の死を「気にしてもしょうがない」などと言われたユキちゃんには負の感情があるでしょうからね。しかし、注意すべきは、この2枚の追加画像がなければ、ユキちゃんがどんな気持ちで半目になっていたかはわからなかったということです。

 つまり、負の感情必要説の立場では、単なる半目のイラストを見ただけではそれが「ジト目」であるか否かを判断できない場合があるのです*4。それは作品を読んでみて初めてわかることなのです。箱に閉じ込められた猫が生きているのか死んでいるのかが箱のフタを開けてみるまでわからないのと同じように、ある半目がジト目であるかそうでないのかは作品を読んでみるまでわからないということです。

 また、負の感情必要説においては「ジト目キャラ」が成立する余地が狭まってしまうことになるかもしれません。というのも、あるキャラクターが常に半目であるからといって、常に負の感情を抱いているとは限らないからです。

 人間の表情の理解はしばしばコンテクストに依存します。ゲーリー・フェイジンは、「描かれた人物の感情を読み取る時は、周囲の状況や背景にも影響される」*5と指摘しています。負の感情必要説からすると、ジト目とは、負の感情をコンテクストから読み取れる際に観察できる瞬間的な現象ということになりましょうか。それは単なる半目とは全く異なるものです。 

 ところで、負の感情不要説、つまり「半目=ジト目」という理解には疑問があります。すなわち、「ジト目とは本当に単なる半目の言い換えにすぎないのか?」という疑問です。たとえば、寝起きでボーっとしている顔を考えてみましょう。

 

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ヒジキ『あやかしこ 第1巻』(KADOKAWA、2015年)第2話。 

 

 これをジト目と呼ぶ人は少数派でしょう。もしこういった半目をジト目と呼ばないとすれば、ジト目とは単なる「半目」ではないということになるでしょう。少なくとも、全く同一の言葉であるとはいえません(そもそも全く同じであるならばジト目と言い換える意味がありません)。また、仮にこの絵の台詞等を消して「親に怒られて泣いている女の子の絵です」と紹介したならば、この絵をジト目と解釈する人も増えるかもしれません。

 もちろん、以上の議論は必要説vs不要説という大雑把で単純な二分論を前提とするものです。ピクシブ百科事典の記述が示唆するように、実際のところ、ジト目に関する大方の理解は、この中間的なところにあるでしょう。

 今のところの僕の結論は、ジト目の解釈においてコンテクストを完全に無視することはできない、という程度のものですね。いや、要はよくわからないということですが。あと、いくらメモとはいえ上の議論もまとまりがないですね……

 

4.ジト目の定義とかどうでもよくね?←確かにどうでもいい。でも考える価値はあるかもしれない。

 ジト目とは何であるかということを究明することは、すなわちジト目の必要条件、あるいはジト目の本質を究明するということです。ジト目とは何であるかが明らかになれば、創作活動においてジト目を表現することが容易になるかもしれません

 仮に、ジト目とは「負の感情を伴った半目」であるとしましょう(負の感情必要説)。そうであるとすると、ただ半目に描いただけではジト目にならないということになります。ゆえに、ジト目キャラを描くためには、コンテクストを与える記号、たとえばつり上がった眉(怒りを表す)を描き足すといったことが必要になります。

 また、ジト目の定義の研究は、ジト目っぷりを強調する手法の選び方の参考になるかもしれません。ジト目キャラには鬱々とした効果線を選んだほうがいい、とかね。

 こういった調査は、結果を報告すると「当たり前のことだろ」と言われがちですが、それがなぜ当たり前なのか考えること、つまり漠然と共有されている印象を文章化する行為には意味があるように思います*6

 まぁこういう高邁な発想はあとづけで、実際のところ単に気になったから調べただけなんですけどね。

 

(追記2017年1月30日)いろいろ書きましたが、定義から迫るアプローチがどれだけ有効であるか、という点には疑問がなくもないです。結局、人々がジト目についてどう考えているのか、という社会学的なアプローチの方が有効かなぁ(調べようがないけど)と思っています。書いてすぐの時点でそう考えていましたが、完全に追記するのを忘れてました。

 

参考:

ジト目 (じとめ)とは【ピクシブ百科事典】

ジト目とは (ジトメとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

ジト目の同義語 - 類語辞典(シソーラス)

ジト目/ ジト眼/ 同人用語の基礎知識

 

*1:といいつつ筆者にはとくにジト目に対する基礎理論の構想はないので、誰かより詳しく研究してください。まーそのなんだ、現象学とか役に立つんじゃないですか、知らんけど。

*2:他のネット上の定義も似たり寄ったり。当たり前だが国語辞典に「ジト目」の定義は載っていなかった。ちなみに、ジト目についての研究論文があるかもしれないと思ってグーグルスカラーでも検索してみた。「神経心理学におけるポジトロンCT の有用性 最近の話題」。うん、これは違うな。たぶん本格的な研究は無い気がしますけど、詳しく調べたわけではないのでちょっとわかりません。

*3:なお、ピクシブ百科事典の「ジト目の種類」の項目は、負の感情を有していない場合の表情についてもジト目と呼ばれることがあるとして、いくつか例を挙げています。

*4:「場合がある」と限定的に言ったのは、本文で後述するように、つり上がった眉や涙といった記号でコンテクストを付与することが可能なケースがあるからです。ジト目であるか否かの判断が困難なケースとは、1枚目、135頁のユキちゃんの顔のように、あいまいな表情を浮かべているケースです(2枚目の「だーーめっ」を見た後に見ると、笑っているようにもみえませんか?)。ゲーリー・フェイジンは、「状況にもっとも影響を受けやすい顔は、あいまいな表情を浮かべたもの、あるいはごくわずかな表情しか浮かべていない顔である。そのような場合はむしろ、顔で起こっていることを見ない方がそこに託されたメッセージを読み取りやすくなる」と述べています(ゲーリー・フェイジン(みつじまちこ訳)『表情―顔の微妙な表情を描く―』(マール社、2005年)13-14頁)。関連して、いわゆるジト目キャラは感情を表に出さないことが多いという点にも留意すべきですね。

*5:ゲーリー・フェイジン(みつじまちこ訳)『表情―顔の微妙な表情を描く―』(マール社、2005年)13頁。

*6:たとえば、躍動感のある絵には迫力があると言われますが、躍動感があればなぜ迫力が出るのか、その機序をきちんと説明できる人はいるのでしょうか。「こう描くと可愛さが強調される」とか「この構図で描けば力強さが出る」といった話についても全て同様のことがいえるでしょう。

【読書】大切な練習から逃げない気持ちの作り方ーーエリック・ベルトランド・ラーセン『ダントツになりたいなら、「たったひとつの確実な技術」を教えよう』

読書

 ある技術についてプロ並の技術を身につけるには1万時間の練習が必要だという。毎日欠かさず1時間練習しておよそ27年という途方もない練習量である。

 我々はたいてい、ある技術を身に着けようと思って練習を始めても、100時間もしないうちにあっさり練習をやめてしまうものだ。下手なピアノで騒音問題を生じさせるよりは、ソファに寝そべってテレビを見ている方が楽しいのは間違いない。で、結局ピアノは埃をかぶって書類置き場に変化するわけである。

 では、我々がつまらない練習から逃げ出さず、大きな成果を達成するための地道な努力を続けるにはどうすればよいのだろうか?ネットサーフィンをやめて参考書を開くにはどうすればよいのだろうか?著者であるラーセンは、「メンタルトレーニング」がそれを解決するという。本書はラーセンの開発したメンタルトレーニング法を集約したものである。本書は練習方法について論じる本ではない。「練習する気になるための方法」について論じる本である。

 

ダントツになりたいなら、「たったひとつの

ダントツになりたいなら、「たったひとつの

 

 

 ラーセンはノルウェー国防軍空挺部隊出身の元エリート軍人であり、いまではノルウェー有数のメンタルコーチだ。ラーセンは、オリンピック金メダリストへのコンサルティングマイクロソフト等での講演を行う「勝者」と評すべき人間だが、しかし、彼は生まれつき成功を約束された人間だったというわけではないようだ。たとえば、こんなエピソードがある。

 

小・中・高校時代は、身体が小さく、いつも仲間はずれだった。サッカーチームの試合でも、最後の最後までベンチで待機していた。……ノルウェー士官学校の入隊試験を受ける前に、学校側から、お前には無理だと告げられていた。高校時代、威勢のいい同級生には、小柄でひ弱だと思われていたし、集団になじむのが苦手だった。家族は引越しが多く、何度も転校したので、親友ができなかった。小中学校時代には、いい思い出がほとんどない。方言で話し、クラスで一番背が低く、社交的でもないので、辛かった。

Kindle版No. 147)

 

 では、素晴らしい才能を持って生まれたわけでもないのに、なぜラーセンは卓越した成果を出すことができたのだろうか?

 ラーセンによると、「たぐいまれな結果を出せる人は、……日常の小さな『正しい決断』を下すのが上手なのだ」Kindle版No. 65)。その小さな決断とは、ランチの後にスポーツテクニックの研究をするかそれともテレビを観るかとか、朝パッと起きるか二度寝するかといった、本当に些細なものである。こういった小さな「正しい決断」の積み重ねが、生まれもった能力とは無関係に、将来的に大きな結果となってあらわれるのだ。

 しかし、二度寝するよりはパッと起きて健康的な朝食をとったほうがいいなんてことは誰だってわかってる。無意味にネットサーフィンするよりは本の1冊でも読むほうが身になることなど重々承知だ。知ってるけどネットサーフィンをやめられないのだ*1。そんな我々が小さな「正しい決断」を下せる人間になるためにはどうすればよいのだろうか?

 ラーセンは、メンタルトレーニングこそがその答えであるという。ラーセンによると精神的なフィットネスは単なるスキルに過ぎず、誰でもトレーニングによってメンタルを鍛えることができる。では、我々はどうやってメンタルを鍛えればいい?

 メンタルトレーニングについてラーセンが提示するアイデアの1つが、自分の「価値観」と「欲求」とを正確に知るということだ。ここでいう「価値観」とは、「あらゆることを総合して、あなたにとって一番大切なもの」Kindle版No. 435)のことをいう。それは健康とか、知識、成長や達成感といった要素だ。健康を大切にする人であれば健康的な食事をとろうとするように、価値観は特定の行動を強化してくれる。ここで重要なのは、「価値観」と「夢」とは同じではないということだ。価値観と夢とが両立しないこともありうる。たとえば、「安全・安心」を優先する価値観を持っているにもかかわらず、「起業する」というハイリスクな夢を設定する場合がそうだ。この場合には価値観もしくは夢のいずれかを修正するしかないが、価値観は夢や目標と違って変化しにくい。だから、前もって価値観を考慮に入れて夢や目標を設定することが重要になるのだ。ちなみに、私自身について考えてみると、私は「幸福」(厳密には「美」と「情愛」と「安全」の比重が極めて高められた「幸福」)という価値を重視しているのだが、現状をキープしても全然幸福になれそうな気がしないので、「本当は行きたくない方向に走っているトラックに乗って」いるということになるのかもしれない(Kindle版No. 323)。微妙だ。

 こういったメンタルトレーニングの目的は、我々がコンフォート・ゾーン、つまり「楽に過ごせる空間」から脱却することを目指す点にある。料理人になるためにはカップ麺ばかり作っていてもダメなのだ。そして、コンフォート・ゾーンから脱却することはあらゆる技術の上達にとって決定的な要素だ。ジョフ・コルヴァンがノエル・ティッシーの議論をひきつつ言うように*2、コンフォート・ゾーン(既にできることの領域)とパニック・ゾーン(難しすぎてできないことの領域)の間にあるラーニング・ゾーンでの努力こそが人間を成長させるのである。料理人になりたきゃハンバーグも作れってことだ。そしてハンバーグを作る気分になるためにはどうすればいいかを教えてくれるのが本書というわけである。

 翻って考えてみると、ラーニング・ゾーンの問題は部下や学生に指導する者にとっても重要なことだ。既にできることを訓練させても学生の能力は高まらないし、かといって難しすぎる訓練を与えても学生には対処不可能である。指導者には学生にラーニング・ゾーンでの課題を適切に与え、かつやる気を引き出しつつ、学生のコンフォート・ゾーンを広げていくことが期待されるのである。それは大変な仕事であり、片手間にできるものではなかろう。

 ダントツになりたい人、あるいはダントツになるつもりはないが青年将校ドローゴ*3のように人生を浪費したくはないという人におすすめ*4*5

*1:ネットサーフィンおもしろすぎる。

*2:ジョフ・コルヴァン『究極の鍛錬』Kindle版No. 1568。

*3:ブッツァーティタタール人の砂漠』の主人公。タタール人の襲来に備えて辺境の砦から砂漠を監視する任務についているドローゴが、「もしかしたらいつかタタール人と勇敢に戦う日がやってくるかも?」と期待していつまでも砦に居続け、そのまま人生を棒にふるというどうしようもない話。

*4:ただし、本書が要求する内容は結構ハードルの高いものであり、多くの人にとっては実践の難しいものかもしれない。

*5:なお、監修者である山口真由氏の解説文には少し疑問がある。これについては別に文章を書きたい。

【読書】少女と廃墟ーーつくみず『少女終末旅行』

 人間というのは不思議なもので、生きた住居にではなく、朽ちた廃墟にこそ美を見出すことがある。

 

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

 

 

 つくみず『少女終末旅行』は、文明が崩壊して廃墟と化した街を、楽観的なユーリとちょっぴり神経質なチトが履帯式の3人乗りオートバイケッテンクラート)に乗ってあてもなく進みつづける物語だ。

 文明が滅んだ理由は作中では明らかにされない*1。主人公たる少女たちは、廃墟と化した都市を、ひたすら食糧を補給しながら進むだけである。文明崩壊の理由を探るとか、生き残りを探すとか、そういうご立派な目的や価値や理由などはいっさい出てこない*2。だからこそ、文明崩壊後の世界で生きるために食糧を探し続ける物語が重くならないし、廃墟描写の重厚さと力強さが強調されてくる。この少女と廃墟とのコントラストの美しさ、そして後述する微妙な調和が、『少女終末旅行』を面白く、かつ独特の雰囲気に満ちた作品にしている。

 すこし、抽象的な話になるが、少女と廃墟の話にフォーカスしてみよう。少女、つまり廃墟を進むユーリとチトの姿は決して悲壮感に満ちてはいない。彼女たちの楽しげなやり取りによって、本作はむしろ日常系作品のようなあたたかな(あるいは微温の)情感をたたえており、単純に日常系作品としても楽しめる作品になっている。そういう意味で、本作には日常系作品の持つあの空虚感が漂っているし、あるいは、本作は、ユーリとチトという2人の少女の単なる「旅行風景」でしかないといってもよい*3

 

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つくみず『少女終末旅行 第2巻』(新潮社、2015年、電子書籍版同年)50-51頁。kindle版 No.165中53。

 

 他方、そうしたゆるやかな物語に対して、廃墟は力強く蠱惑的に描かれる。本作の廃墟は単なる背景(あるいは余白を埋めるもの)ではなく、それ自体が作品を構成するうえで重要な役割を担う。

 

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つくみず『少女終末旅行 第2巻』(新潮社、2015年、電子書籍版同年)46-47頁。kindle版 No.165中49。

 

 本作の廃墟は強烈な遠近感と構図による力強さを持ちつつも、定規を使ったようなまっすぐな線ではなく、むしろ手書きのでこぼことした線で描かれており、廃墟に有機的な情感を生みだしている(方向性は違うけれど、あずまきよひこよつばと!』の背景、その線が連想される)。この有機的な情感は、ユーリとチトの有機性(あるいは日常感)と結合し、廃墟と少女という取り合わせに必然性と調和を与えている。そして同時に、廃墟の力強さは、けして力強い存在ではない2人の少女との関係で強烈なコントラストをもたらす。少女と廃墟との結合(あるいは調和)とコントラストが同時に成立していることで、作品全体に美しさと面白さが与えられる。

 『少女終末旅行』の面白さが少女と廃墟との強烈なコントラストと微妙な有機的結合の上に成立しているのだとすると、廃墟を単純で無機質な直線で描いてしまうと、本作はとたんにつまらないものになってしまうだろう*4。もし廃墟がきっちりかっちりとした線で描かれると、おそらく廃墟は少女たちとの調和を失い、単なる背景に変わってしまう。単なる背景としての廃墟は、物語に完全に埋没するか、あるいは少女たちの物語を圧倒してしまうだろう。その意味で、本作は非常にバランスのいい絵なのだが、他方で、そうした精緻な廃墟が見たい人には勧めにくい絵でもある。

 さて、抽象的な感想をつらつらと書いてきたが、『少女終末旅行』は何も考えず少女のかけあいと廃墟とを見ているだけで十分に面白い作品である。愛車にして命綱のケッテンクラートが故障した際、懸命に修理するチトにユーリが言い放った「もっと絶望と仲よくなろうよ」という言葉*5は、まさに本作の空気感を表現している。あなたがこうした空気感に馴染めそうな読者であるならば、間違いなくあなたにとって『少女終末旅行』は良作となるだろう。

 ところで、こういうものを書いておいてなんだが、実は3巻を読むのがもったいなくてまだ2巻までしか読んでいなかったりする(2016年10月時点で最新刊は3巻。もうすぐ4巻が出る)。そういうわけで、ここに残されるのはとりあえず2巻まで読んだ時点での感想であり、3巻以降を読むと感想も変わるかもしれない。 

*1:ただし第2話で爆撃機やヘリコプター、戦車の残骸が描かれており、文明崩壊の理由を暗示している。文明崩壊時期は必ずしも明らかでないが、本作の舞台である多層構造都市や多脚戦車(第13話)の存在からいって、崩壊前は相当な文明度を有していたようだ。また、第9話で描写されたカメラ内の日付表示によれば、物語は9話時点で西暦3230年8月6日である。なお、第3巻末尾の「チトとユーリの旅の携行品図解」を見る限り、このカメラが生産されたのは技術力の高さから言って少なくとも現代ではないが、かといって物語の直近の時期でもないといえよう。また、第8話冒頭のカナザワの言葉からは、少なくとも100年前、つまり3130年には既に文明が崩壊していたことが推測される。

*2:むしろ、第6話冒頭の2人のかけあいを見る限り、そうした問題は積極的に排除されているのかもしれない。ただし、近代的な思惟、あるいは合理的知性の持ち主として、地図描きのカナザワ、飛行機を作るイシイなどがゲスト的に登場している。が、彼らの存在はむしろ作品がダレるのを防ぐのに寄与しているように思われる

*3:その軽さからして、タイトルを「週末旅行」とかけているのかも。

*4:少なくとも部分的には。なお、そうした無機質な廃墟はそれはそれで美しい。ここで言っているのは、そうした廃墟は『少女終末旅行』のユーリとチトには似合わないだろう、という程度の意味である。

*5:第2巻102頁。